変わるキッカケ
1994年4月30日、5月1日。フォーミュラ1 サンマリノグランプリ イモラ・サーキット
ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナが亡くなった。
俺はこの時代をリアルタイムで見てきたわけではないが、1994年のF1総集編を初めて観た時、全身の力が抜けたことを覚えている。
4月30日 予選
300km/hでタンブレロを抜けてヴィルヌーブカーブに進入してくる紫のシムテックのマシン。その時フロントウィングが脱落しコンクリートウォールに真っ直ぐ突っ込んでいく。そのマシンがヨロヨロとトサコーナーまで斜面を降りてくる。ラッツェンバーガーの首が力なくモノコックに横たわる。そのモノコックには脚が丸見えになるほど大きな穴が空いていた。
5月1日 決勝
スタートできずにコース上に停まったままのJ.J. レートにペドロ・ラミーが突っ込んでいった。マシンの破片が客席に飛んでいく大惨事だった。
この事故の影響でセーフティーカーが導入。冷えるタイヤ。6周目にセーフティーカーが隊列から離れ、レースは再開。各車隊列を保ったままスロットルを開けていく。
7周目、セナに続いて2位を走っていたもう一台のベネトン、ミハエル・シューマッハの車載カメラに映像が切り替わる。その時セナが操縦するウィリアムズ FW16は300km/hで走り抜けるタンブレロのレーシングラインから外れ、コンクリートウォールに突っ込んでいった。
ウィング、タイヤ、サスペンションアーム。全てのパーツが弾き飛んでいた気がする。
事故直後、ラッツェンバーガーとは違い、少しだけ首が動いていた気がする。でも救助に駆けつけるはずのコースマーシャルが近づかない。もう目を疑う光景だったのだろう。
駆けつけたドクターのシド・ワトキンス氏が事故現場で緊急手術を始めた。地面に溜まる鮮血。
すぐさまドクターヘリに乗せられ、緊急搬送されるセナの体。上空へ飛び立ったヘリから地上へ血が垂れていた。
2人の犠牲者を出したこれらの事故によって、F1は早急にに安全対策を進めた。「ピットレーンの速度制限」「スキッドブロックによる車高の制限」など、、
この事故から安全性を求め出した結果、現在では数々の安全装置が開発されている。何十Gと打ち付けられるクラッシュが起きても、燃え盛る炎の中に何十秒といようとも、ドライバーはマシンから抜け出して涼しい顔をしている。
あの悲劇の事故から30年。
あの変えようのない事実から学んで、今のF1がある。安全に対して弛まぬ努力をし続けている。この歩みを絶対に止めないでほしい。
もう二度とモータースポーツで人が死ぬ姿は見たくない。
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