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「佐藤真監督と『阿賀の記憶』のこと」矢田部吉彦(前東京国際映画祭ディレクター/映画上映プロデューサー/映画文筆)

会社辞めたのだったら、次の映画のプロデューサーをしませんか?

現在はポレポレ東中野と呼ばれている映画館は、かつてはBOX東中野という名前だった。そのBOX東中野で、佐藤真監督が「ドキュメンタリー考座」と題された映画レクチャー講座を開いていた。2001年くらいだっただろうか。佐藤監督がセレクトした古今のドキュメンタリー映画の名作を皆で見て、その場で佐藤監督が解説をする。全10回ほど開催される「考座」に、当時会社員をしながら映画業界への転身を検討していた僕は、飛びつくように参加した。
 
小川紳介『三里塚 辺田部落』、土本典昭『ある機関助士』、野田真吉『ふたりの長距離ランナーの孤独』、あるいは牛山純一やワイズマンやクレイマーやフラハティなどを見て、佐藤さんの解説を聞き、続きは居酒屋に移動して受講生も佐藤さんも一緒になって語り合う。何という豊潤で幸せな時間だっただろうか。佐藤さんは我々のどんな意見でも楽しそうに聞いている。おそらく、佐藤さんも体系的に世界のドキュメンタリーをまとめようという意識が高まっていた時期なのだと思われ、本人も学びながら(確認しながら)考座を企画していたようにも思える。僕がリーフェンシュタールはやらないのですか?と提案すると早速考座で取り上げてくれたり、ストローブ/ユイレをやりましょうと言ったら、「どれがいい?」と聞いてきたり、とにかく、垣根が無かった。名著『ドキュメンタリー映画の地平』が出版された直後に考座が企画されたはずで、ドキュメンタリー映画史家としての佐藤真が熟成されていた時期なのだな、と今になって思う。
 
ドキュメンタリー考座が終了するのと、僕が会社を辞める時とがほぼ重なっていたのが良かったのかどうか、「会社辞めたのだったら、次の映画のプロデューサーをしませんか?」と佐藤監督から封書の手紙が届いた。40年早いです!と即座にお断りしたのは言うまでもないのだけれど、「プロデューサーなんて、誰でも出来ますよ」というような、聞く人が聞いたら怒りそうなことを言われながら、まあ一緒にやりましょうよといつの間にか説得されていた。そもそも、佐藤真監督から一緒に映画を作りましょうと言われて断る人なんて、そんなにいるはずがない。いそいそと、船に乗った。
 

佐藤監督は記憶を映画で扱うに際し、より純化した方向を突き詰めたいと考えていたのではないだろうか。


新作は、何といっても、あの伝説の『阿賀に生きる』の地を再び訪問するという企画だ。『阿賀に生きる』から10年が経ち、登場人物の多くがこの世を去ってしまっていた。そこで阿賀の地を10年振りに訪れ、去ってしまった人たちの記憶を改めて映画に刻んでみたいと佐藤監督は思ったのだった。その発想には、阿賀野川に近い場所で、19世紀後半から20世紀初頭にかけて用いられた「ガラス乾板」の古い写真が多く発見されたことがきっかけのひとつにあったはずで、それらの写真には『阿賀に生きる』に登場する老人たちが若い時分に目にした光景が映っているに違いなかった。10年が経過した『阿賀に生きる』の近い記憶と、その登場人物たちがかつて見たであろう遠い記憶とが、複層的に重なる映画の骨格が立ち上がってくるようだった。
 
実際に、去ってしまった人々の記憶に触れる手段として、古いガラス乾板写真を媒介にするアイディアは、僕にはとても素敵に思えた。ロケハンで、ガラス乾板写真が発見された家(それが写真館であったかどうかの記憶が定かではないのが我ながら情けなく、「記憶」に関する文章を書いているのに自分の記憶が問われるという、慙愧の念に堪えないとはまさにこのことだ)を訪れ、ガラス乾板写真自体も撮影し、さあここから始まるのか、と興奮したものだった。
 
しかし、佐藤監督は「ガラス乾板」のアイディアをあっさりと捨ててしまった。その理由はあまり語らなかったように思う。どこかしっくり来なかったのだろうと想像するしかなかったが、僕はとても残念な気持であった。もちろん、残しましょうと進言できるほどには「プロデューサー」ではなかった。もしかしたら、ガラス乾板は「きっかけ」に過ぎると考えたのかもしれない。結果論かもしれないが、佐藤監督は記憶を映画で扱うに際し、より純化した方向を突き詰めたいと考えていたのではないだろうか。ガラス乾板のような分かりやすいきっかけは不要と思ったかもしれないというのは、今になって理解が出来る気がする。
 

『阿賀の記憶』場面写真

唯一「ここでは廻すのやめよう」と言われたのは、『阿賀に生きる』の仕掛け人のひとりである旗野秀人氏に、阿賀で再び映画を撮りたいと佐藤さんが相談した場であった。


さらに考えられるのは、高い評価を得た前作『SELF AND OTHERS』(00)で牛腸茂雄の写真と記憶を扱ったことが、ガラス乾板と阿賀の人々の記憶を結び付ける企画に繋がったことは間違いないとして、あからさまに同じことを繰り返す愚を避けようとしたのかもしれない。ともあれ、『阿賀の記憶』の完成版を見ると、ガラス乾板の出番はあり得ただろうかといまだに考えてしまう。しかし、ガラス乾板という目に見える記憶がなくなったことが作品の抽象度を高め、映画として深い境地に達しているのは明らかであり、佐藤さんの慧眼に頭を垂れるばかりである。
 
佐藤さんの命を受け、ロケハンでは僕もメイキングのカメラ(ミニDV)を廻しながら同行していた。どれだけ図々しくカメラを廻していいのか、臆すると叱られそうだし(佐藤さんが現場で怒ることなどなかったので杞憂なのだが)、どこまで出しゃばっていいのかの加減も分からず、尊敬するドキュメンタリー作家の脇でカメラを廻すというのはなかなかに痺れる体験ではあった。唯一「ここでは廻すのやめよう」と言われたのは、『阿賀に生きる』の仕掛け人のひとりである旗野秀人氏に、阿賀で再び映画を撮りたいと佐藤さんが相談した場であった。ここでしくじると全て進まなくなる、と佐藤さんが判断した重要な場であったのだ。
 
メイキング用というのは語弊があり、佐藤監督は当初様々な映像を映画に取り入れようとしていた。僕が廻していた現場の様子も、メタな要素として本編内に取り組むつもりだとは言っていた。新作は阿賀の老人たちの記憶を扱うのと同時に、佐藤監督や小林茂キャメラマンらの青春の記憶の記録でもあった。記憶と現在が複層的に交わっていく作品が志向され、僕は常にカメラを廻すようになっていた。とある局面では、「カメラを構えないで、でも撮影ボタンはオンにしておいて」と、ちょっとヤバいドキュ制作指南を受けたりもした。しかし佐藤さんの名誉のために記しておくと、その場面が使われることはなかった。結果的に僕が撮影した場面が本編に残ったのは1ヵ所だけであったが、多くの試みを繰り返しながら企画は進んでいった。
 
佐藤さんがイギリスでの1年間の研修に出かけるため、企画は一時期中断することになった。とはいえその間も、僕は文化庁の助成金に申請したり、フランスの山間地リュサスのドキュメンタリー映画祭で佐藤さんと合流したり、企画が止まっているという感じは無かった。むしろ佐藤さんはさらにアイディアを研いでいたようであった。僕がロケハンでミニDVカメラを廻し続けたように、本編の16mmフィルムとデジタル映像を組み合わせることを想定していた佐藤さんは、イギリス時代にサイレント映画にはまり、手回しクランクのキャメラで撮影したいのだと、少し興奮気味に話してきたのだった。
 
もちろん、面白そうであることは間違いないのだが、「いやあ、手に入りますかねえ」と僕はぼんやりとはぐらかしたものだったが、帰国後もしばらくは手回しキャメラの話をしていたはずだ。ただ、やはり実際に使用できるものが見つからず、断念せざるを得なかった。その替わり、というわけでもないのだが、撮影方法だけでなく、映写方法も多様であっていい、という発想に佐藤さんは向かっていった。確かテアトル新宿に原將人監督のマルチスクリーン上映を佐藤さんと観に行ったのだが、これをやりたいんだよね、とぼそっとつぶやいていた。

16mmと8mm加え、ビデオ映写機も使ったはずで、つまり3つ素材からなる3つの作品をひとつのスクリーンに同時に映写するという試みであった。


 それからほどなくして、BOX東中野で佐藤真監督セレクションのオールナイト上映が企画され、デュラスに関わりのある作品を集めることになった。そこに、佐藤監督は自作もプログラムに入れて、かねてからの関心事を実行しようと考えた。劇場の映写室から16mmの映写をすると同時に、僕が客席から8mmの映写機で別作品を同じスクリーンに映写し、しかも時折その映写機を上下左右に振って映像を移動させるということをしたのだ。16mmと8mm加え、ビデオ映写機も使ったはずで、つまり3つ素材からなる3つの作品をひとつのスクリーンに同時に映写するという試みであった。その結果何が得られたのか、具体的な成果を明記するのは難しいが、とにかく佐藤監督は映画を撮る行為と見せる行為の可能性を自由に広げたいと、ひたすら考えていたのだ。
 
手回しクランクの撮影は叶わなかったが、映写の自由は『阿賀の記憶』に活かされた。『阿賀に生きる』の劇中、登場人物が自分たちの映っているラッシュ映像を見て笑うシーンがあるが、撮る/撮られる/観る/観られるという映画の差異が無効化されるような素晴らしいシーンである。そこで、『阿賀の記憶』では、森にスクリーンを張ってそのシーンを上映している様子を撮影しようということになった。実に複雑な入れ子構造である。映写は自由であるべきであると考えていた佐藤さんにとっては、自然の中の上映は必然でさえあり、それは阿賀の地に生きた人々の記憶を森で祝福する行為であった。その様子は、本編に記録されている。
 
さらに、サイレント映画を通じて映画の原点に回帰していた佐藤監督は、フィルムの性質も記憶の痕跡であると考えた。『阿賀の記憶』の準備過程で、『阿賀に生きる』の未使用フィルムが見つかり、雨風に晒されたようなフィルムの傷を、佐藤さんは愛したのだった。痛んだフィルムを上映し、雪の壁に映写されたその部分も、『阿賀の記憶』に取り込まれた。『阿賀の記憶』は、老人たちの記憶や佐藤さんと小林さんの記憶であることを超え、遥かサイレント映画を起源に持ち、フィルムやデジタルの試行を繰り返してきた映画という媒体の記憶をも、内包するものになったのだ。

ともかく2人の間には他人が入り込む余地の無い特別な呼吸があったのだと、感じられた。

ところで、現場を近くで見ていた者としては、『阿賀の記憶』は小林茂キャメラマン無しでは成立しなかった作品である。佐藤さんは当初は『SELF AND OTHERS』で組んだ田村正毅氏に依頼したのだが、「阿賀を撮るなら小林くんとやるべきでないのか」と言われて得心したというのは、知られているエピソードのはずなので、書いてもいいだろう。もちろん、『阿賀に生きる』で佐藤さんと小林さんが衝突したというのも有名な話で、それは3年も阿賀に住み込んで共同生活していたら当たり前なことだと思われるが、ともかく2人の間には他人が入り込む余地の無い特別な呼吸があったのだと、感じられた。
 
場を設定するのは佐藤さんで、場の空気を作るのは小林さんだった。コバさんは人懐っこく、撮影対象者と気軽に打ち解け、すっとキャメラを廻す。対象者とコミュニケーションを取るのは、明らかにコバさんの方が得意だ。そこは、役割分担が出来ていた。
 
さらに、『阿賀に生きる』で培った信頼関係が最も活かされていたのが、長廻し撮影についてだろう。佐藤さんと小林さんが相談している場に立ち会った記憶がないのだが、記憶を撮影するというその感覚について、佐藤さんと小林さんの脳内は完全にリンケージしていたのだと思う。「狂気のやかんのシーン」と僕が呼んでいる、あまりにも過激に長いやかんのシーンは、その脇にかつていたはずの人間の輪郭が画面に浮かび上がるように感じられるまで、続く。キャメラを廻し続ける小林さんから少しだけ離れた後ろに、佐藤さんも息を止めたように屹立し、念を送っているように見えた。これは、完全に共同作業だった。
 
数回に分け、阿賀での撮影は順調に進んでいった。早朝3時半に起き、無人の町の夜明けを撮影に行ったのは眠くも美しい思い出のひとつだが、良いショットが撮れたと皆で喜んでいたものの、編集段階で佐藤さんはまったく使わなかった。そういうものかとも思ったが、撮影は16mmフィルムであり、とりあえず廻せていられるデジタル撮影のドキュメンタリーとは根本的に異なる。素材を捨てるのはかなりの決断を伴うはずだ。ドキュメンタリーは編集で作られるということは良く言われることだが、『阿賀の記憶』の場合は編集の秦岳志さんが作り上げたと言っても過言ではない。研ぎ澄まされた、ダイヤのカッティングだ。

 ノスタルジアとは全く無縁の刺激に襲われる。メビウスの輪を走るようでいて、気付くと別の次元に連れていかれるタイムマシンに乗った気になる。


そして、かつて存在した人の記憶を映画に刻むことについて、佐藤さんと喫茶店で重要な会話を交わしたのは、映画の編集がほぼ最終段階に差し掛かった頃だった。『阿賀に生きる』の人物たちの声が、『阿賀の記憶』には重要な役割を果たしている。映画の冒頭、新緑の中、阿賀野川沿いを進む移動ショットに、老女が語る声が被さってくる。
 
声は、『SELF AND OTHERS』で牛腸茂雄のそれがカセットテープから流れて来る瞬間に映画が揺れたように、記憶を巡る佐藤真作品については決定的な要素なのであった。しかし、『阿賀の記憶』で問題になったのは、強い新潟の訛りで発せられる声が意味する内容が、全く理解できないことだった。なので、字幕を付けたほうがいいと思うと、佐藤さんは言った。実際に、強調演出として字幕を濫用する現代のテレビ番組とまではいかなくても、聞いて意味が分からない発言に字幕を入れるのは、映画でも常識だろう。
 
しかし、手回しクランクや痛んだフィルムや雪壁映写や映写機振り回しなどを経て、僕も少し大胆になったというか、知らず知らずのうちに佐藤さんの世界に感化されていたのか、「これは記憶と痕跡の映画なので、発言が何を言っているのかが理解できなくても、声そのものがあればいいんじゃないですかね」と、生意気にも発言したのだった。佐藤さんは一瞬黙って、んー、そういう考え方もあるか…、と熟考に入った。その場で結論は出なかったが、結局字幕は入れないことになった。
 
字幕が無いことで、映画の純度と抽象度は増し、過激なアート作品としての完成度も深まったと、見返す度に思う。しかし一方で、観客と一緒に作品を見る時、体がすくむ思いも毎回味わう。いま見てる人たちはさぞかし困惑しているだろうなと思うと、いても立ってもいられなくなってしまうのだ。「ごめんなさい」と心の中で謝ったりさえしている。実際に、とある劇場に公開の相談をした時、字幕が無いことを理由のひとつに挙げられて断られたこともあった。見る人のことを考えていない、と。
 
もっとも、佐藤さんは意に介していなかった。映画上映の原理的な形に実験的に迫ろうとしていた佐藤さんにとって、字幕無しは一貫性のある自然な流れであったようであり、最初に僕が提案したことはやがて忘れてしまったようだったが、佐藤さんの演出意図に沿えたということで僕が密かに誇りにしていることでもある。
 
ここで面白いのは、外国で上映しようとすれば、英語字幕は必須であるということだ。なので、ほとんどの日本人が聞き取れない声の発言の内容も、英語字幕には訳されている。英語字幕を読めば、発言が理解できる。従って、英語字幕版と通常日本版を見ると、映画の理解の質が異なる。これは日本映画史上極めて稀なケースだと言っていいはずだ。しかしここで、英語字幕も不要なのでは、という議論は出なかった。英語字幕版が「別バージョン」的な立ち位置になるのも、映画のあり方として愉快ではないか、というのが佐藤さんの考えだった。
 
60分に満たない小さな作品の中に、あふれ出るほどの実験精神が詰まっているのが『阿賀の記憶』という作品だ。見返す度に、いまだに新たな発見がある気がする。『阿賀の記憶』の記憶は、時間とともに薄まるように思えるが、何度でもよみがえる。自分の記憶の濃淡が、『阿賀の記憶』が持つ記憶のループ構造に影響され、ノスタルジアとは全く無縁の刺激に襲われる。メビウスの輪を走るようでいて、気付くと別の次元に連れていかれるタイムマシンに乗った気になる。そして、佐藤さんがいま確実にここにいると実感できて、緊張するのだ。
 
矢田部吉彦(前東京国際映画祭ディレクター/映画上映プロデューサー/映画文筆)


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