画面越しではあるが、じぶんのどこかと接続し、こちらの生と関わった 小田香(映画作家)
『まひるのほし』に登場する知的障害者と呼ばれる方々が表出するものや、その人たちがものを生み出しているシーンを見ていると、気持ちや思考を含めた、からだの中にある何かが既存のコミュニケーションの中で表現できないとき、人は身体の外の紙やペン、絵の具、言葉で世界や他者と接続しようとするのかもしれないと感じる。
知的障害者と呼ばれない人間は、コミュニケーションのために身体の外にピタッといくつものコードを身に着けている気がするが、なにかを表現する既存のコードがないとき、もしくはそれに違和を感じるとき、ペンや筆やカメラを握るんじゃないだろうか。
私自身はどうだろう。やはりじぶんの生を何かと、どこかと、誰かと接続させたいと感じたときに、撮影に没頭する気がする。
登場人物のおひとり、しげちゃんは、女性に対する気持ちを、丁寧に書かれたメモ書きやお手紙で表出する。声にも出す。彼の展示の一角がうつされた瞬間、心が強く跳ねた。
それは展示されているものに対する共感ではない。理解できているかはわからないが、なんだかすごい映画を見たあとにたまに訪れる、「すごいものをみた。なんだこのワクワクする気持ちは。じぶんももっとやろう」という嬉しい動揺に似ていた。
彼の表出したものたちの展示が、画面越しではあるが、じぶんのどこかと接続し、こちらの生と関わった。
人間がその生を世界や他者と交感するその術が、アートなのかもしれない。
小田香(映画作家)