リンダ・キャリエール

ついにベールを脱いだ“幻の名盤”

Text:金澤寿和

 “幻の名盤”がついに正式発売された。77年にレコーディングされ、ラフ・ミックスのテスト盤がプレスされるところまで行き着きながら、そのままお蔵入りして日の目を見なかったリンダ・キャリエールのソロ・アルバムである。

 今や100〜200枚しかプレスされなかったローカル・レーベル物や自主プレス盤までが、たやすく復刻されてしまう時代。もはや何が“幻”なのか釈然とせず、名盤の格付けも落ちぶれた。

 でもリンダ・キャリエールのコレは偽りナシ。当時の関係者しか持ち得ない激レア音源ながら、参加ミュージシャンやソングライター陣の豪華さ、そして何より細野晴臣プロデュースという事実が、長きに渡りマニアックな音楽ファンの注目を集めてきた。それがココへ来ての世界的シティポップ・ブーム。そこにアルファ55周年の動きが被ったのは、偶然かもしれない。でも細野自身がずっとリリースを望んでいたそうだから、半ば必然的な公式発売といっていい。ココでは発売に至った経緯、アルバムを取り巻く状況などの詳細は脇に置き、作品自体について試論を加えたい。

リンダ・キャリエール「リンダ・キャリエール」(2024年)

 まず最初に指摘したいのは、アルファ・ミュージックとプロデューサー契約を結んだ細野の初仕事だったこと。アルファのトップ村井邦彦は、設立当初から日本発信の洋楽ヒットを目標に掲げ、まずは2人でその足掛かりとなるシンガーを探した。その際細野が示したのが、クレオールの女性シンガーのアイディア。クレオールとは、フランス、スペイン、アフリカもしくはインディアン系の混血で、フランス文化の影響を色濃く映している特徴がある。細野自身75〜6年にパナムから発表したアルバム『トロピカル・ダンディ』『泰安洋行』で、ニューオーリンズ界隈のセカンド・ライン・ファンクやカリブ音楽と、沖縄や和製ポップスなどをミックスした独自のごった煮サウンド、“チャンキー・ミュージック”を提唱していた。それを米音楽シーンにフィードバックさせるチャンスと踏んだのだ。そして発掘されたのがニューオーリンズ出身、UCLAに通いながらクラブで歌っていたリンダ・キャリエールだった。

 この唯一作のお蔵入りはリンダの歌唱力が原因…、そんな噂が囁かれてきたが、実際に本作を聴けば、それが事実無根だとすぐに分かる。確かに歌ヂカラで寄り切るタイプのヴォーカルではないが、当時の都会派シンガーらしく柔軟でしなやかなスタイルだ。彼女の歌は村井の嗜好にも合致していたはずで、彼が80年に設立した現地法人アルファ・インターナショナルに迎えた女性シンガーは、英ベテラン・ポップ・シンガーで当時はAOR指向を強めていたルル、アンジェラ・ボフィルやランディ・クロフォードに通じるフュージョン・スタイルを持つボビー・ウォーカーなどだった。

 作編曲を手掛けた細野と山下達郎に加え、作曲陣として矢野顕子、吉田美奈子、佐藤博を集めた豪華さに驚く。が、それは後々の活躍を知っているから。当時としては、プロデューサー細野が信頼する仲間に曲作りを依頼したに過ぎない。ただそこで注目すべきは、お蔵入りが決まるや否や、作家陣のセルフ・ヴァージョンや関連作で続々にリメイクが生まれたこと。すなわちそれだけ世に出したいレヴェルのマテリアルが揃っていたことを意味する。

 筆者の場合は、山下達郎の78年作『GO AHEAD!』で<Love Celebration>を聴き、遡って前年に笠井紀美子が『TOKYO SPECIAL』で同曲の日本語ヴァージョン<バイブレイション>(作詞は安井かずみ)を歌っていたのを知った。そしてそれからしばらくして、これが元々リンダ・キャリエールに提供された楽曲で、ずっと未発表のまま眠っているという情報を掴んだ。

 笠井のアルバムにはもう1曲、矢野顕子が提供した<Laid Back Mad or Mellow>が<待ってて>として収録されている。でもそれが同じリンダの未発表作からと知るには、これまた相応の歳月を要した。同じく吉田美奈子が書き下ろした<Proud Soul>が、<猫>となって彼女の78年作『愛は思うまま(Let's Do It)』に収録。佐藤博<Vertigo>が、名盤として名高い『AWAKENING』(82年)で<It isn't Easy>に生まれ変わった。細野楽曲も、<All That Bad>が坂本龍一&カクトウギ・セッション『サマー・ナーヴス』(79年)で<Neuronian Network>に、<Socrates>が大空はるみ『VIVA』(83年)の<悪い夏>になって世に出ている。つまり未発表10曲中6曲のリメイクが生まれたのだ。そしてこうした事実が徐々に明らかになっていく過程で、本作の神格化が進んだ。

 では名盤になり得た本作が、何故お蔵入りの憂き目に? リンダのヴォーカルでなければ、何が原因だったのだろうか? 聞けば世界発売を狙った村井は、前述テスト盤を独自人脈を使って海外に配布したそう。ところがそのリアクションが存外に厳しく、それに従ってリリース断念に至ったらしい。でも全貌が明らかになった今では、世界発売はともかく、国内発売したって何ら問題のないレヴェル。現に翌78年には、やはり日本国内で制作したベナード・アイグナー『LITTLE DREAMER』を出しているから、発売中止の措置はちょっと解せない。単に、理想と現実のギャップに晒された村井の意気消沈が理由だったのか?

 そこで改めてアルバムを聴いてみる。するとアナログ盤A・B面で、それぞれに多少色合いが異なることに気づく。A面は達郎アレンジによるシティ・ソウル中心の構成。マリーナ・ショウやミニー・リパートン、パティ・オースティン、デニース・ウィリアムスあたりの同時期作を髣髴させるのに対し、細野曲をメインにしたB面は、ちょっとエキゾチックな仕上がりだ。でもだからこそ、ほのかなオリエンタリズムを感じる矢野作<Laid Back〜>や、アラン・トゥーサンを意識したような佐藤博提供<Vertigo>が輝いている。A面に鎮座する細野の2曲は、小坂忠が歌ってもハマりそうなソフトなソウル・チューン。逆に終盤になって登場する達郎曲<Love Celebration>は、A面との橋渡しを担い、アルバム全体を総括する役目を果たしている。

 ただ細野が意図した日本発信のワールド・ミュージック的指向性は、まだこの時点では若干早すぎた印象が…。テスト盤が誰の手に渡ったかは定かではないものの、例えばYMOを認めたトミー・リピューマはこの盤を聴いていないんじゃなかろうか。何故なら当時のリピューマは、ワーナーのハウス・プロデューサーだったはずだから…。翌年アルファは、デイヴ・グルーシン&ラリー・ローゼン制作で、横倉裕『LOVE LIGHT』を発表。和楽器を使ったフュージョン作品を世に問う(US発売は81年)。そこにシンガーとして起用されたのはパティ・オースティンだった。

 初の契約プロデュース作品がお蔵入りした細野は、村井から次の企画を問われ、そこからYMO構想が動き出したのは有名だ。一方でデビューを棒に振ったリンダはL.A.に戻り、ソーラー・レーベルの敏腕プロデューサー:リオン・シルヴァーズ3世に認められて、ダイナスティのメンバーになる。でもそれが明らかになるのは、これまたずいぶん後になって。筆者がダイナスティのレコードに彼女の名前を発見したのは、90年代末〜ゼロ年代初頭と記憶する。でもその頃はロクに資料もなく、果たして2人のリンダが同一人物なのか、確証を得るまでに時間を費やした。知ってる人は知っていたと思うが、制作現場のスタッフやミュージシャンを別にすれば、USソウル・ミュージックと和製ポップスの間には、それなりの見えない溝があった。そうした意味では、つくづく良い時代になったと実感させられるオフィシャル・リリースなのである。