第14回 荒井由実
2022年でデビュー50周年を迎えた松任谷由実。ユーミンの愛称で親しまれる彼女は、独身時代「荒井由実」の名で、アルファミュージックに所属するシンガー・ソングライターであった。
ユーミンはもともと、作曲家志望の少女であった。72年7月5日に「返事はいらない」で世に出る1年前、71年5月1日に元ザ・タイガースの加橋かつみに提供した「愛は突然に…」で、まず作曲家としてデビューを果たしている。これはユーミンと親交があったフィンガーズのベーシスト、シー・ユー・チェンが、加橋に彼女の作った曲の入ったテープを渡したところ、その才能に驚いた加橋が担当ディレクターだった本城和治に作品を聴かせた。そのうち「マホガニーの部屋」という曲に、加橋が新たに詞をつけ「愛は突然に…」というタイトルで発売された。この時、彼女は17才。作曲家ユーミンのデビュー作である。
この曲をたまたまビクター・スタジオの調整室で耳にしたのが村井邦彦である。村井はその曲を気に入り、その場にいたユーミンに「アルファの専属になりませんか」と声をかけたのであった。
ユーミンは、村井の元でいくつもの楽曲を作るが、本人は自分で歌うつもりはまったくなかったとその後語っている。そんな彼女は、周囲の勧めもあり、自分で歌うことになったのである。当時の日本の音楽界に、女性の作詞家はいても作曲家はほぼ皆無であった。
1973年にはファースト・アルバム『ひこうき雲』をリリース。ここから現在に至るまでのユーミンのヒストリーはよく知られているところであろう。ゆえにここでは作詞家・作曲家としての荒井由実を紹介していきたい。
アルファ時代の荒井由実は、既に数多くのアーティストに楽曲を書いている。最も多く提供してきたのが、同じアルファ所属のハイ・ファイ・セットで、ユーミンの3作目『COBALT HOUR』に収録されている「卒業写真」は、元はハイ・ファイ・セットのデビュー曲として先に世に出ている。ほかにも彼らのファースト・アルバムに「十円木馬」を作詞、またユーミンの2作目のアルバム『ミスリム』に収録された「海を見ていた午後」もカヴァーされている。76年6月に発表された2作目のアルバム『ファッショナブル・ラヴァ―』は、「朝陽の中で微笑んで」「荒涼」「フェアウェル・パーティ」など、半数以上が荒井由実の作詞(一部作曲も)で、初期ユーミン作品集といった趣がある。ユーミンとハイ・ファイ・セットは75年の4月に、紀伊国屋ホールで1週間の競演コンサートを行うなど、ステージでも共演が多く、ユーミンの「あの日にかえりたい」には、メンバーの山本潤子がコーラスで参加、印象深いスキャットを披露している。
中でも特筆すべきは、75年11月5日に発売されたハイ・ファイ・セットの4作目のシングル「スカイレストラン」で、この詞はもともと、ユーミン自身の「あの日にかえりたい」に乗っていたもの。「あの日にかえりたい」はドラマの主題歌として書かれたものだが、歌詞がドラマの内容と合わないという理由で書き直しとなり、元々の詞に村井邦彦が曲をつけ「スカイレストラン」として世に出たものである。ユーミンと村井の組み合わせは、ほかにも「土曜の夜は羽田に来るの」「幸せになるため」「星降る真夜中」などがあり、いずれもユーミンの作風とはやや違う曲調ながら、ヨーロッパ的な洗練されたメロディーやコードの運びは、2人の世界観が合致したものだということがわかる。
実のところ、こういった「同じ曲に違う詞を付ける」というのは、ユーミン作品にその後もよく現れるのだが、本人自身が語るところによると「別の風景が見える」ということだそう。また、逆に「曲を付けかえる」といった形もあり、その好例は前述の「愛は突然に…」にもともと乗っていた「マホガニーの部屋」で、これはメロディーを変えてユーミン自身が76年に「翳りゆく部屋」として発表している。
ユーミンの名を一躍、世に知らしめたのは、75年8月にバンバンに提供した「『いちご白書』をもう一度」だが、この直後、自身の「あの日にかえりたい」も大ヒットして、一躍ユーミン・ブームが巻き起こる。まず作家として世に知られ、その後自身の歌でも成功するという流れを辿ったのだ。また、このB面に書いた「冷たい雨」も、翌年ハイ・ファイ・セットがカヴァー、シングル・ヒットしている。またこの少し前にユーミンは、渡辺音楽出版の木崎賢治の依頼で、アグネス・チャンに「白いくつ下は似合わない」を提供。アグネスとユーミンの年齢は2~3歳しか違わなかったこともあり、同世代の少女の感性や心情をリアルに描ける作家として、一躍歌謡界からも注目が集まるようになった。その翌年、渡辺プロダクションの新人歌手・三木聖子のデビュー作「まちぶせ」を作詞・作曲し、この曲はその後81年に石川ひとみがカヴァーし大ヒットを記録、さらに96年には「荒井由実」名義でユーミン本人もセルフ・カヴァーしている。だが、ここで注目しておきたいのは「まちぶせ」のB面である「少しだけ片想い」で、これはユーミンの『COBALT HOUR』に収録されており、そのカヴァーである。ユーミンのこういった作風は、新たな時代のアイドル・ポップスにふさわしい作風を内包していた、その証明と言えるのではないだろうか。同様に『MISSLIM』収録の「魔法の鏡」も、その後早乙女愛によってカヴァーされているのだから。
ほかにもアルファ在籍時、すなわち荒井由実時代の作品で印象深いものを挙げるなら、長谷川きよしに作詞した「ダンサー」や「愛は夜空へ」がある。長谷川は、加橋かつみと同じ本城和治ディレクターの担当で、長谷川自身もユーミンの才能にほれ込み、「ひこうき雲」「旅立つ秋」などをカヴァーした。また、はっぴいえんどやシュガー・ベイブと同じ風都市に所属していたかんせつかずには「一人芝居」を作詞・作曲したほか「一人ぼっちの音楽会」「遠くへ」などを作詞。特に「一人芝居」は初期ユーミンの作風を強く感じさせる隠れた名作である。ほかにも元カーナビーツのポール岡田が組んだ男女デュオのパイシスに「恋人と来ないで」を作詞・作曲。この曲は80年にユーミン自身の『SURF&SNOW』で、俳優の岡田真澄とのデュエットでセルフ・カヴァーされた。2曲を聴き比べると、パイシスのオールディーズ風の曲調からガラリと変わって、シンプルなバックでしっとりとしたムードに変わっている。
女性デュオのポニーテールには「二人は片想い」を提供。この曲もまた歌詞を変え、「昔の彼に会うのなら」として82年の『パール・ピアス』でセルフ・カヴァーしている。原曲は2人の女の子が同じ男の子を好きになり、共に振られるといった内容だが、「昔の彼~」の詞は、まるでその後日談のように聞こえるのも面白い。
80年代に松田聖子や薬師丸ひろ子の楽曲でコンビを組むことになる松本隆とも、出会いは荒井由実時代。最初に組んだのは石川セリの「ひとり芝居」で、ほぼ同時期に太田裕美の「袋小路」「ひぐらし」の2曲でも組んでいる。この時はまだペンネームの「呉田軽穂」は生まれておらず、荒井由実名義。特に「袋小路」の繊細で哀愁漂うメロディー・ラインは、彼女の持ち味の1つでもあり、この曲が収録されているアルバム『心が風邪をひいた日』を聴くと、「木綿のハンカチーフ」など筒美京平の楽曲と、「近いようでだいぶ異なる」作風を感じさせる。
その筒美京平ともユーミンは組んでいる。この場合は松本との場合と反対に、作詞提供という形だが、丸ごと1枚筒美と組んだ郷ひろみのアルバム『HIROMIC WORLD』のほか、平山三紀の「やさしい都会/あなたの来る店」がある。
また、沢田研二に作詞した「ウインクでさよなら」では加瀬邦彦と組んでいるが、まるで自身の「ルージュの伝言」のアンサーソングのようにも聴こえ、色っぽくて、女を惑わせるジュリーの魅力を見事に引き出している。
もともと、作曲家になりたかったユーミン。アルファ時代の彼女は、シンガー・ソングライターとして大成したことはもちろんだが、作詞家・作曲家としてもその才能を開花させていたのだ。荒井由実の時代から「ひこうき雲」「やさしさに包まれたなら」「卒業写真」など、時を超えても古びない名曲を発表してきたが、同時に幾多の魅力的な提供作品もまた、今聴き直しても色あせない、ポップスとしての輝きを放っている。彼女の巨大な才能を最初に活かしたのが、アルファという音楽制作の「場」であったのだ。
Text:馬飼野元宏