ALFA+アルファ〜リアル・クロスオーヴァー進化論
⑥イエロー・マジック・オーケストラ
Text:金澤寿和
YMOファンにとって、2023年は悪夢のような一年だったに違いない。以前から療養していたとはいえ、坂本龍一と高橋ユキヒロが相次いで三途の川を渡ってしまったのだから。2人の輝かしい功績は、今もって語り尽くされるコトはないが、ここでは“クロスオーヴァー進化論”という命題に則って、デビュー間もない頃のYMOとその周辺の音楽シーンについて振り返ってみたい。
YMOがデビュー・アルバムを発表した78年当時、テクノ・ポップという言葉はまだ生まれていなかった。アナログ・レコードの帯を飾ったのは、《CATCH UP FUSION》というキャッチコピー。しかもジャケットには“YELLO MAGIC ORCHESTRA”とプリントされているのに、帯には“細野晴臣”と“イエロー・マジック・オーケストラ”と名前がダブルで並んでいて、まるで細野のソロ・アルバムのように見えた。まして細野のアルファ移籍作『はらいそ』は、ソロなのに“ハリー細野&イエロー・マジック・バンド”と架空のバンド名がクレジットされていたから、ややこしいことこの上なし。すべて明らかになっている今でもそう感じるから、オンタイムで手にした人は、さぞ混乱しただろう。でも一番混乱したのは、当時のアルファのスタッフだったに違いない。「一体これをどう売り出せばイイんだ?」と。
YMOが登場してきた70年代終盤は、ジャンル・ミックスが大きく進んだ時代である。…とはいえ今ほどには細分化されていないから、便宜上の振り分けも少なくなかった。細野の『トロピカル・ダンディ』『泰安洋行』『はらいそ』は一般的に“トロピカル三部作”と呼ばれるが、自らは“チャンキー・ミュージック”と提唱。特に『はらいそ』は、都市型の洗練に晒される中で変質し、国内外で急速に台頭したフュージョン枠に入れられた。細野が他の2人にYMO結成を持ち掛けたのが、『はらいそ』収録の「ファム・ファタール」がキッカケだったのは有名だが、当の細野はアルファ入りの際にレーベル側とプロデューサー契約を結んでおり、『泰安洋行』の時とは異なる目線だったらしい。と同時に、チャック・レイニーやスタッフ(スティーヴ・ガッドやエリック・ゲイルらが在籍)らに感化され、最もプレイヤー然としていた時期でもあるという。『泰安洋行』と『はらいそ』の間で作られたティン・パン・アレーの2作目も、彼らの関連曲やフォーク系ヒットをインストゥメンタルにしたもので、フュージョンのイージー・リスニング的側面とダブるものがあった。
細野に声を掛けられた高橋ユキヒロも、当時はまだサディスティックスのメンバー。突然解散したサディスティック・ミカ・バンドの演奏陣が立ち上げたバンドがサディスティックスだが、ギター高中正義(YMO1stにもゲスト参加)は併行していたソロ活動が成功したため、2nd『WE ARE JUST TAKING OFF』(78年) やライヴ・レパートリーは、自ずとインスト中心へ引っ張られていた。細野のアイディアに応じたユキヒロは、初ソロ作『サラヴァ!』制作に入り、サディスティックスは不可避的に解散へ進んでいく。
坂本龍一が初ソロ・アルバム『千のナイフ』を作ったのも同時期だ。日本コロムビアの先駆的レーベル:ベター・デイズから出たこの作品は、流通面で“フュージョン/シンセサイザー”に分類され、帯には“テクノ・ファンタジー”のキャッチが踊った。実際このアルバムには、細野、松武秀樹というYMOブレーンのほか、ジャズからフュージョンに移行した天才ギタリストとして脚光を浴びていた渡辺香津美が参加。坂本・渡辺コンビは、この後もレゲエやダブにトライしたカクトウギ・セッション『サマー・ナーヴス』、矢野顕子や高橋ユキヒロも参加したスーパー・ユニット:KYLYNへと進化を続ける。教授によるフュージョン・セッションはそれで終焉を迎えるも、香津美はそのままYMOのツアーにギタリストとして参戦した。
こんな面々とした流れがあったから、アルファもデビュー時のYMOをフュージョン枠に置いたのだろう。積極的な判断ではなかったと思うが、他にフィットする言葉はなかった。
この78年暮れ、アルファは新宿・紀伊国屋ホールで、あるイベントを開催している。名付けて「アルファ・フュージョン・フェスティヴァル’78」。このイベントには、吉田美奈子やニール・ラーセン、大村憲司らと共に、“細野晴臣(&イエロー・マジック・オーケストラ)”が参加していた。そしてこのイベントに関係者として来日していた米の大物プロデューサー:トミー・リピューマの目に止まり、USデビューが決まる。
「ぶっ飛んだね。僕はこれを、アメリカで売るぞ、と言って発売したけど、アメリカではまったく不発でね。でも日本ではビートルズ並みだった」(シンコーミュージック刊『トミー・リピューマのバラード』より)
実際、YMOが注目されたキッカケは、リミックスした上で「コンピューター・ゲーム」と改題されてUS発売された「ファイヤークラッカー」がディスコでヒットしたことである。
そんな頃、“テクノ”という単語が教授の目に止まった。『千のナイフ』に使われたあのキャッチだ。イヤ、もしかすると、元々が教授自身のアイディアを拝借したものだったかもしれない。でもそれに加えて、3人が激しく影響を受けたクラフトワークが、ほぼ同じタイミングでニュー・アルバム『マン・マシーン(人間解体)』をリリース。そこに「メトロポリス」なる楽曲が入っていた。おそらくこれが「テクノポリス」という楽曲タイトルに繋がっていったと想像できる。この曲と「ライディーン」を収めたYMOの2nd『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』は、79年9月の発売。それが爆発的ヒットになっていくと同時に、教授自身も露出するメディアに“テクノ・ポップ”という言葉を流布した。それを追って、P-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスらが登場して注目されるように。こうして“テクノ・ポップ”という言葉が一人歩きし、自ずとフュージョンというカテゴリーから外されるようになった。
フュージョンというと、今ではしっかり特定の音楽スタイルを表すジャンル用語として定着している。しかし最初から“フュージョン”が使われていたかというと、その前に“クロスオーヴァー”という、より混沌した実験要素の強いサウンドを示す言葉があった。単にロックやジャズ、ソウル、ファンクだけでなく、多国籍な音楽を人力とコンピューターで演奏し始めた初期YMOは、まさにリアル・クロスオーヴァーに相応しいシンボル的存在だった。