ALFA+アルファ〜リアル・クロスオーヴァー進化論

⑤ 大村憲司

Text:金澤寿和

 日本のセッション・シーンに今も名を遺すワン&オンリーのギタリスト、大村憲司。その突然の死(享年49歳)から、早25年の月日が流れていることに気づいて、愕然とした。この数年、日本と言わず世界各国でシティ・ポップの再評価ブームが湧き上がっている。その多くの作品群に、大村憲司はギタリスト、あるいはアレンジャー/サウンド・プロデューサーとして、大きな貢献を果たした。だからJ.ポップの裏方として活躍していた頃より、むしろ現在の方が、大村の名を目にする機会は多いかもしれない。

 一般の音楽ファン・レヴェルで言えば、大村を紹介するには “YMOのサポート・ギタリスト”と説明するのが一番通りが良いだろう。大貫妙子、矢野顕子、山下達郎、加藤和彦、井上陽水など、多くのアーティストから厚い信頼を受けたのも事実であるが、やはりYMO参加で彼を知った、という人は少なくない。

 YMOの初代サポート・ギタリストは渡辺香津美。ジャズ出身の香津美が何故テクノに?というのは、後になってからの話で、KYLYNが香津美=坂本龍一を主軸にしたプロジェクトだったことを思い出せば合点が行く。むしろ自分にとって唐突だったのは、大村の参加であった。高橋ユキヒロの強い希望だったらしいが、大村のルーツにはブルースがあり、エリック・クラプトンがヒーローだった。テクノとブルース、そこに違和感を禁じ得なかったのだ。そしてYMO参加前、クロスオーヴァー/フュージョン黎明から間もなく制作したソロ・アルバムが、ここにピックアップする『KENJI SHOCK』だった。発売元はもちろんアルファで、リリースは78年。

『KENJI SHOCK』(1978年)

 大村とアルファの関係は、アルファが音楽出版・制作会社だった時代に遡る。意外にも大村には、村井邦彦が育てた“赤い鳥”のメンバーだった時期があるのだ。フォーク系ヴォーカル・グループだった彼らが楽器を持つようになって、リード・ギタリストとして大村が迎えられたワケである。そして「ケンジと演りたい」一心でオーディションを受けて加入したのが、まだただのバンド・ボーイだった村上ポンタ秀一(ds)だった。2人が“赤い鳥”に参加したのは、72〜3年のわずかな期間。しかしライヴ活動が盛んだったこと、L.A.レコーディングを体験したことなどが重なり、相当濃密な時間を過ごしている。そして脱退後の2人は高水健司(b)を誘って“エントランス” を結成し、五輪真弓をサポート。同時にバンブー、カミーノといったセッション・グループでの活動、数多のスタジオ・ワークも始まって、多忙を極めるようになっていった。

 そうした中、大村の初ソロ・アルバム『FIRST STEP』が制作される。プロデュースは深町純で、坂本龍一 (key)、林立夫・村上"ポンタ"秀一 (ds)、小原礼 (b)、斉藤ノブ・浜口茂外也 (perc) ら、気心の知れたミュージシャンが集合。ブルースやジャズ・テイストを絡めたクロスオーヴァー/フュージョン黎明期の勢いが感じられるモノに仕上がった。だが作品としての完成度は、正直あまり高くない。それは、プロユース・シリーズというオーディオ・レコードの一環として企画されたから。自由度が高いので、実験要素が強く新ジャンルとして注目されていたクロスオーヴァーにはジャスト・フィットしたが、オーディオ・ツールのため作品力は求められていなかった。

 そんな『FIRST STEP』を礎にアルバムの完成度を引き上げ、ポップ・インストとして楽しめるレヴェルに到達させたのが『KENJI SHOCK』だ。これは当時のアルファ社長:村井が、大村を“世界に通用するギタリスト”と高く評価し、L.A.レコーディングによる本格的リーダー作を準備させたから。プロデュースは、当時リー・リトナー&ジェントル・ソウツのメンバーとして脚光を浴びていたドラマーのハーヴィー・メイスン。制作者としてはまだ駆け出しだったが、ドラマーとして“東のスティーヴ・ガッド、西のハーヴィー”と礼賛されていただけでなく、その時点で既に3枚のソロ作を発表、トータルな才能を持つミュージシャンとして将来を嘱望されていた。

 他にもスティーヴ・ルカサーとデヴィッド・ペイチ、ジェフ&マイク・ポーカロなど、デビュー準備中と思しきTOTOのメンバーたち、ヴィクター・フェルドマン(perc)、グレッグ・マティソン (kyd) 、シーウインド・ホーンズらを起用。この辺りにもハーヴィーの人脈が生かされた。とりわけ驚いたのが、ドラムのほとんどをジェフ・ポーカロに任せ、ハーヴィー自身はパーカッションを叩く程度に留めた点。自制心を利かせ、制作に傾注していたという証しだろう。『FIRST STEP』とは制作時期も近く、実際にリ・レコーディングされた楽曲も複数収録されている。それ故、作品として完成度が数段アップしたことが実感できるのだ。

 しかしこの後、大きなターニング・ポイントが訪れる。それが前述した、YMOの全国およびワールド・ツアーへのサポート参加。そして翌81年には、3枚目のソロ作となる『春がいっぱい』が、アルファから発売された。プロデュースは大村自身で、コ・プロデュースは坂本龍一と高橋ユキヒロ、演奏陣のほとんどはYMO関係者。その超絶ポップなギター・インスト作品の前に、前作までのクロスオーヴァー・サウンドはキレイさっぱり消え失せた。まさにショックだった…。

 でも冷静になって聴くと、サウンドの感触こそテクノ仕様なれど、ギターや生楽器へのこだわりは健在だし、ベンチャーズやシャドーズなど彼なりのルーツ回帰も窺える。ドラスティックな大変身と感じてしまうのは、フュージョン・ギタリストとしての大村を知っているから。世界に広がったYMOファンの多くには、それこそが大村のファースト・インプレッションなのだ。YMOライヴで大村をフィーチャーしていた「Maps」は、まるで一時のトーキング・ヘッズだが、そこで咆哮を上げる彼のギターは、逆にフュージョン期より過激で野蛮だった。でも大村自身は、YMO参加を機に単なるギター弾きからスケールアップし、歌心を理解するアレンジャー/サウンド・クリエイターに成長していったように思う。あの凄まじいギター・ワークは、ギタリストである自分へのレクイエムだったに違いない。

 大村憲司があの世へ旅立って4半世紀。ポンタに龍一、ユキヒロと、今や現世より雲上のセッション大会の方が豪華な顔ぶれになってしまったのが悲しいな…。