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愛車遍歴~そこに垣間見れる俺の人生の足跡

ここ2回ほど、クルマの記事を書いたが、今のクルマで所有したクルマは累計13台となった。

その歴史は免許を取得して直ぐに友人に20万円で譲ってもらったトヨタ コルサで始まる。大学時代だったことも有り、これで色んな所に行ったな。最後は免許取りたての弟に貸して、ガードレールにぶつけられて泣く泣く乗り換えることに…

次に選んだのは日産のR32 スカイライン TYPE-M。
社会人にもなっていたし、新車での購入を考えたが、 モデル末期でR33の情報が既に巷に出始めた頃。なので、既に在庫処分に入っていた頃だった。なので、自分の選びたいグレードやオプションの選択が出来ず、諦めてホンダのアコードのUSクーペに心揺らいでた頃、日産のディーラーに勤めていた友人が「俺ので良かったら譲るよ」と言ってくれ、ATだったが格安だったので乗り換えた。2リッターエンジンで自身初のターボ車で、5ナンバーサイズの取り回しやすさ、高速でも全然不満の無い走りでいいクルマだった。
当時は車検対応マフラーが出始めた頃で、HKSの車検対応マフラーを装着していた。今から考えると見た目も音も大人しかった。でも、そういうアフターパーツの取り付けという新たなクルマの楽しみ方を教えて貰ったクルマだった。
だけど、この頃って同型のR32のスカイラインは結構走ってて、当時付き合っていた彼女を夜に送って帰りに阪神高速を走っていると、同じR32のスカイラインに乗った奴が、HKSのバンパーステッカーに気付くなり前に出て、左右のウィンカーを交互に出しながら、蛇行運転しながら「かかってこいよ!」と言わんばかりに煽ってくるアホな奴が居たな。
街中でも右横のクルマが寄ってきたので、左に避けたらそこに居たフルスモークのセルシオに追いかけ回されたけど、回頭性の良さで振り切ったことも有った。
そう考えると、乗ってて楽しいパワーバランスのいいクルマだったな。
当時は直ぐにGT-Rグリルに交換しているクルマが多かったけど、最後までノーマルを貫いた。
よく言う、『羊の皮をかぶった狼』的なクルマが個人的にはツボなんだな。

三台目に選んだ愛車は初の外車。E36 BMWの325iだった。

初の外車。購入当時は現行モデルだったが、直ぐに次期モデルが発売された...(;^_^A

当時、阪神淡路大震災を神戸の中心街で被災して、通勤が出来ないからという理由で当時勤めていた会社の独身寮に入れと言われ、実家を出た頃だった。毎週末、大渋滞の道を食料品などを買って両親の居る避難所に届けていた帰りに、中古車ディーラーに置いてあったのがコイツだった。気になって、偶々高校時代の友人にそのことを話すと、これが偶然、そいつが勤めていた会社だった。で、実際に見に行って、購入となる。
このクルマで国産には無い、基本的なクルマ作りの考え方を教えて貰った気がする。それはボディや、シャーシの作り込みの違いや、そこへのコストの掛け方の違いなど、乗ってて感じるずっしりした安定感、高速安定性は明らかに当時の国産車とは違うものを感じた。だって、BMWの3シリーズなんてスタンダードな大衆車。そこに惜しまず投入する技術力はこれをグロバルスタンダードにしたいというメーカーの意識の高さを感じた。
そりゃ、本国ドイツにはアウトバーン(当時は制限速度が無かった高速道路)が有るし、そこを満足に走れなきゃならないし、当然、陸続きなので大陸を移動する交通手段でもある訳だ。
今は国産車もそこを見据えてやっているが、やっぱ何か違う。

選んだグレードは325i。2.5Lのエンジンだ。このエンジンはBMW伝統の”シルキーシック”と呼ばれる、直列6気筒エンジン。要は”絹のように滑らかに回るエンジン”と呼ばれるものだ。
『BMWに乗るならこのエンジンを知らなきゃ!』
って、いう想いだった。
確かに、長年熟成されてきたエンジンは文字通り滑らかで、綺麗に回るエンジンだった。
この頃から、自動車メーカーの歴史や、そのクルマの歴史を意識するようになった。
今現在のクルマ選びも、そこにあるような気がする。

ただ、故障はした。走行中に頻繁にエンストして、ディーラーに持ち込んでも分からないというので、自分で当時はネットも無いので、文献を調べて見つけた答えがイグニッションコイルの破損だった。それをディーラーに言って交換して貰ったら直った。これって、今やBMWあるあるだけど、当時はディーラーでもそんなレベルだった。

その頃、30歳を迎えるにあたり、会社の上司からも「そろそろ、結婚しろ」的なことを言われ、意識し始めて30歳になる寸前で結婚した。結婚して暫くしたころ、元嫁に「子供が出来たら子供を乗せれる大きなクルマが良い」と言われ、当時人気だったトヨタのエスティマを買おうとディーラーに行くが、納車は大分先。ならばと、マツダのMPVに変更してディーラーに行くが、こちらも納車待ちが長い。結局、BMWを購入した友人の中古車屋でMPVの新古車を購入した。
と言うか、元嫁は走ってたら止まったBMWが嫌いだった。自分は免許も持ってなかったから、クルマの知識は皆無で、『クルマが止まるなんて有り得ん!』だったんだ。

病んでた頃でもある(笑)

ただ、このクルマのシートアレンジの良さはピカイチだった。大勢で出掛けたら楽しいクルマになったんだろうけど…
以前の日記にも書いたが、当時は病んで半年の休職も経験。勿論、子宝にも恵まれず、ただ、でっかいこのMPVを持て余していた。って、言うかやっぱ、この手のクルマのフワフワするサスペンションのストロークが何か嫌だった。目線も高いしね。当時、子供が居たら俺の考えも変わっていたんだろうけど…

で、結局、岡山の工場に左遷されるタイミングで、「岡山にはTIサーキットがあるやん!」ってアカン思考に陥り、転勤の辞令が出る前に同じ友人に頼んでR32 のスカイラインGT-Rを購入。
こんなことをするから、離婚されるんだろうね...(;^_^A

R32のGT-Rに乗りたかった大きな理由はR32で長年封印し続けていた”GTーR”の名を16年振りにこのクルマで復活させたから。その歴史にはハコスカがレースで輝かしい連勝記録を作ったこのに始まり、このGT-Rにもその歴史を背負うために日産が肝入りで開発した。なので、その復活の始まりのR32のGT-Rに乗りたかった。

ところが、来たのはバリバリのチューンドカー。エンジンは勿論、コンピューター、足回りに至るまで手が入れられていた代物で、計測したパワーは400馬力overと言われていた。因みにノーマルの馬力は当時の規制で280馬力。
そんなクルマだったから、強化クラッチが当然のように入っていて、クソ重たい。大体、そんなパワーを街中で発揮できることは皆無。自律神経失調症の悪化もあり、元嫁から批難轟々に耐えられず、自分でもこのクルマに”
”乗れてない”と思い、当初目論んでいたサーキットに行くことも無く、約半年で手放した。

R34程でもないが、R32のGT-Rも高騰しているので、今持っていたら…とはちょっとは思うけど…

R32のGT-Rを手放した後、反動なのか?落ち着いたクルマに乗ろうと思って、オペルのオメガワゴンを探していたが、希望の色が見つからず、中古車屋の友人(当時は独立していた)の家に行ったときに停めてあったベンツのW202のCクラスに「ベンツってやっぱ、いいクルマだから試乗だけでもしてみたら?」と言われ、「いやいや、幾らCクラスとは言え、未だベンツになんて乗る身分じゃないからええわ」と言ったのだが、「まぁ~試乗だけなら…」と乗ったら、以前乗っていたBMWよりも更にかっちりしたボディ剛性の高さに驚かされた。
何となく、「ベンツがいいクルマ」とか「乗ってて安心するクルマ」と言われる所以が分かった気がした。

「どう、気に入った?もしよかったら、GT-Rを処分した金額と変わらないから、追い金無しで譲っていいけど?」

と言う、甘い言葉に誘われて、W202のCクラスを愛車にすることにした。

初Benz

こうして、初ベンツのオーナーとなった。
写真の通り、WALDのフルエアロが上品に纏まっていていたが、マフラーはノーマルで味気なかったので、初めてワンオフでマフラーをオーダーした。モノは二本出しで、低音で余り音量が大きくないものというリクエストをしたら、その理想にピッタリなマフラーだった。
このクルマもD.I.Yで結構自分で色んなことをした。
取り付けたパーツで一番苦労したが、満足度も高かったのが、キーレスエントリーキット。このCクラスは前期モデルは未だキーレスエントリーは無く、後期モデルから標準仕様となっていた。なので、アフターパーツメーカーから販売されていたキットを取り寄せて自分で取りつけた。トランクの中のウィンカーの裏にロックするためのエアー駆動のアクチュエータが入っていて、そこにキットを割り込ませるというものだった。ちゃんと、ウィンカーが点滅してアンサーバックも出来たので、取り付けには苦労したけど完成したときのその達成感は代えられないものが有った。
実際の走りも、安定感そのもので、運転していての安心感はそれまでに乗ったクルマを軽く凌駕していた。
それに、万人受けするベンツと言うクルマの門戸の広さが何か分かる気がした。
ただ、BMW同様、こいつもトラブルに見舞われた、エアコンの不調と致命的だったのは信号待ちをしていたとき、Dレンジだと発進しないので、色んなレンジを試したがダメで、何故かR(後退)だけが生きている状態に。
ATユニットを積み替える大手術をしたが、その後も細かい電装系のトラブルに見舞われて、手放した。

だが、W202のCクラスの素性の良さには惚れこんでいた。
当時、Cクラスの現行モデルはW203に移行していた。でも、あの丸目が何か受け付けず、次期愛車もまたW202のCクラスを選んだ。購入したのは後期モデル。
そういうことをクルマ好きの間では”変態”と呼ばれている(笑)。

W202~W202 変態の証

当時は転職して埼玉に住んでいた。引っ越し寸前で修理にW202を出していたから、上手いこと言われて、このW202に乗り換えさせられた感は否めなかったが、熟成された後期モデルにはずっと興味があった。乗り換えに関する追い金も妥当な範囲だったので、乗り換えとなった。
このクルマもこれまで同様、中古車屋の友人に手配して貰ったが、流石に登録は自分で行った。車検も切れていたので、予備検査を受けて貰って、生まれて初めて、陸運支局に行くことになる。市役所で仮ナンバーを借りて、手続きに行って、新しいナンバープレートを貰った時は何か達成感を感じた。
この経験が後に車検を自分で通すユーザー車検をしたり、クルマを購入しても自分で登録に行くようになる。
実はこの作業って、結構楽しい。陸運支局に行くと、見慣れない様な珍しいクルマに出逢えたり、そして何より自分でするからコストダウンにもなる。
そう思えるのは根っからの”クルマ馬鹿”なんでしょうね。

ただ、この2代目W202は余り乗らなかった。
購入したのち、暫くして長男が誕生。勿論、チャイルドシートも装着していたけど、元嫁が余り出たがらなかったので、一人で外出すると「子育てを手伝ってくれない」と言われて出られなかった。
その上、元嫁の実家の近くに新築の一戸建てを買うという話になり、猛反対したけど、元嫁の両親からの援助もあり、半ば強引に買わされた。
結局、この家が俺を縛り付けることになり、離婚するまで悩みの種となる。

そんな中、二人目の娘を授かり、ベンツにNGが出て、以前購入した様なMPVの様な大きなクルマには乗りたくないからと言って、悩んだ挙句に選んだクルマがキューブキュービックだった。

これはこれで楽しいクルマでした。

この外見は普通のキューブと変わらない、キューブキュービック。大きな違いはこのボディサイズで3列シートになるということ。
ま、勿論、エマージェンシー的な足元の狭いシートなんだけど、子供が小学生の低学年くらいなら全然問題ないサイズ。しかも、このボディサイズ。エンジンも1.5リッターの5ナンバーサイズだから経済的。
嫌だったのはコラムシフト位かな?
クルマに関してはほぼノーマルで乗っていて、丁度この頃から流行り出したLEDの装飾を付けたりしていたな。
また、この頃にクルマ専門のSNSのみんカラで知り合った、キューブ乗りの方と知り合って、オフ会に参加したのもこの頃から。
SNSを通じたオフ会って、同じクルマに乗るユーザーが集まって、情報交換など、熱くクルマ談義が出来る人たちと交流できるのが、また新しいクルマの楽しみ方だった。それを教えて貰ったきっかけになったクルマだった。
キュービックは娘が物心ついた頃から、よく二人で出掛けていた為、娘が大好きなクルマだった。
だから、手放すときは当時、小学校の低学年だった娘にそのことを打ち明けたら大泣きされた...(;^_^A

その次の愛車に選んだのはV35のスカイライン。

高速をクルージングするならいいクルマだったな

このクルマを乗り換える1,2年前に雨の通勤途中で、当時、乗っていた125㏄のスクーターで雨の日にマンホールで滑って転倒。それが原因で右鎖骨を粉剤骨折した。その手術が失敗して、未だに右鎖骨はくっついていない。
当時はリハビリをしていたが、一向に改善しないので1年以上通って止めたら、労災扱いだったので纏まったお金が入ってきたので、その保険金の一部を使ってこいつを購入。

発売当時、V35スカイラインはあのゴーンが肝入りで作ったクルマ。
だが、伝統の丸目テールライトを無くしたりと、往年のスカイラインファンからは「こんなクルマスカイラインじゃない」と言われていた、不人気車だった。正直、発売当初は俺もそう思った。
そのテールランプは不評をメーカーも認識して後期モデルから、丸目を意識したテールランプに変更された。所有していたのは後期モデルだった。
そうなると、当然、不人気車で中古車価格は安価。国産のFR車が少ない中で選択肢も限られていたし、コンフォート路線に走ったスカイラインってどんなだろう?という好奇心に駆られて購入した。
このクルマのコンセプトはスポーツサルーンといったところ。確かに高速を流すのにはいいクルマだった。だけど、スカイラインの成り立ちの歴史を知っているとやっぱ、スカイラインじゃない。やはり、メインターゲットは北米を意識していたのだと思われる、エンジンのラインナップはフラッグシップに3.5LのV型エンジンを置いて、クーペに至っては3.5Lの一択でしかなかった。このエンジンとシャーシもフィアレディZと共有されていてコストダウンを図っているのが目に見えた。
幾らなんでも、3.5Lを所有する維持費を考えると厳しいから、2.5Lモデルにした。でも、この時はV型のエンジンに乗りたかったんだよな。

ところが、北米ではインフィニティブランド(日産の高級車戦略ブランドでレクサスみたいなポジション)でG35というネーミングで販売されていて、向こうでは大ヒット車となっていた。その後、国内でもUSDMのベース車として重宝されるようにはなるが、その前だったので安価で買えた。

この頃からエンジンの主流は直噴エンジンに移行していて、このエンジンも御託に漏れず直噴だった。でも、やっぱ、直噴エンジンって高回転まで回さないと、カーボンは蓄積されるしから、stop&goが多い日本市場には合わないと思う。実際、エンジンにカーボンが蓄積して警告灯が出てエンジンが止まったことがある。ところが、そのカーボン除去してもらうと、笑ってしまうくらい、良く回るエンジンに生まれ変わった。コンピューターをリセットして一から学習させてやらないとミスファイヤ起こしてたから、劇的に変わってた。

このクルマに乗っている間に行きたいところがあった。
それは長野県岡谷市にあるプリンス&スカイラインミュウジアム
その名の通り、スカイラインというクルマが歩んできた歴史を学べる場所。
スカイラインの聖地と呼ばれ、歴代のスカイラインと中でもレアなスカイラインの実車が展示されている。スカイラインの父と崇められる設計者の櫻井眞一郎氏も館長を務めておられた、スカイラインファンなら神格化された場所でもある。
ここには一人旅で出掛けて、一人でそのレアなクルマを目の当たりにして、小学生の子供のように写真を撮りまくってきた(笑)。

悲しいかな、このクルマの最期は資金難。車検を受ける費用を捻出できず、手放した。しかし、不人気車故、査定は期待できない。ただ、足クルマは要るので、一括査定サイトで業者を呼んで、「凹んでてもいいから走るれる軽自動車と交換して」と言ったら1社だけ、手を挙げてくれた業者が居たのでサイドステップが凹んだMRワゴンに乗り換えた。査定に来た買い取り業者は写真とは違うゴールドのホイールを履いていて、サスもニスモのスポーツサスに交換して程よく下がっていて綺麗に纏まっていたので、「個人的に欲しいなぁ~」と言う担当者が何人か居た。

MRワゴンでしばらく我慢して数年後、お袋の足が不自由になり、車いすを積める車が必要になった。安い国産ワゴンをヤフオクで探していた時に見つけたのが、前車のalfa romeo 156SWだった。

念願のセミオートマチックを搭載したalfaだった

詳細は👆参照。


で、現在の愛車のMINI clubmanに移行する。
👇

こうして、振り返っても実は大半が中古車。
唯一のMPVだって、新古車だった。

ま、勿論お金が無いから新車は買えないけど、何か思考がいつの間にか貧乏が身についたのか?現行モデルに食指が働かなくなってきた。
そりゃ、若い頃は当時人気のあった、デートカーと言われていたホンダのプレリュードを親の脛をかじって買ってもらっている奴が羨ましいとも思ったけど、『それって、どうなん?お前の金ちゃうやろ?』って、何処か冷めた目で見ていた。
クルマってそれなりに高額だけど、自分で汗かいて働いて買ってこそ愛着も沸くし、身の丈に合わないクルマを乗っても俺の中じゃ格好良くない。
ま、『負け惜しみ』と言われればそれまでかもしれないけどね。

でも、新車で買って傷つけられるとムカつくけど、中古だったら未だ諦めも付く。

それに、これだけ色んな車に巡り合って、やっぱ自分はクルマが好きなんだなと思うし、基本的に自分で出来ることは自分でする。
車検も登録もしかり、メンテナンスに至っても自分で出来ることは極力する。てか、したい。それも含めて楽しんでるんだよな。

ぶっちゃけ、alfaもminiもヤフオクで探して、自分で登録も車検も受けているから、車両価格だけだったら何れも30万円台で収まる。実際、昔からヤフオクは愛用していてバイクも購入していたし、そのバイクも売ったりもしていた。
最近は忙しくて、ヤフオクで売るってこと自体は出来てないけど、オークションで値が上がっていくのを見るのも楽しい。子供の頃に買ってもらった超合金なんて、1つ7万円もの値が付いたものもあった。そういうお金をクルマ購入の資金に充てていたことも有ったし、何か全てを楽しんでたら、トータルで充実はしていると思う。

だから、全てが趣味として捉えたら、色んな知識は身に付くし、それが貧乏なりの生きていく術なんじゃないかな?とも思うようになった。

そりゃ、結婚当初の年収は今の倍近くあったけど、その生活が幸せだったかと言うとそうでもない。
あのまま、俺が出世でもして偉くなっていたら、多分人を見下すような人間になっていたかもしれない。

介護の業界に入って初めて耳にした
『quality of life』
って、言葉。

確かに生きていく上でその生活の質を問うのは大事なことだと思うけど、それって、お金が潤沢にあったらそうか?って訳でもない気がした。

実際、お金持ちで身寄りのない方が施設で亡くなり、その方が養子縁組していた息子の実の父親が、参列したお葬式で式の最中に喪主として挨拶に立つ実の息子に拍手したり、その息子夫婦はこれまでおんぼろのトヨタの大衆車に乗っていたのが、故人の荷物を引き取りに来た際にはレクサスに乗り換えたりと、そんなことを目の当たりにしたら、何か虚しくなった経験もある。

それは極端な例かもしれないが、介護業界に入って

『人生、どう最期を迎えるか?』

って、色んなことをリアルに目の当たりにするようになって、強く思うようになった。

仕事は当然ながら生きる術でもある。
しかし、残念ながらこのご時世じゃ、昔みたいにがむしゃらに働いたからと言って、給料が増える環境でもなくなりつつある。

そりゃ、この国はこれだけ、低金利時代を長らく続けて、完全なインフレに陥って貨幣価値も下がり、賃金も上がらない。世界的には物価の上昇に併せて所得も騰がっているけど、この国はそうではない。
勿論、政治判断が悪いことも有るけど、この国の現状じゃ悲しいかな選挙に行っても何も変わらない。そりゃ、直ぐには変わらんだろうけど、あれだけ批判されている文書通信交通滞在費ですら、政治家の既得権益として未だに守ろうとしている。

「そんな奴らにこの国を任せていいのか!」

って、誰もが思っているけど、長年作り上げてきた与党政権が簡単には変換できない仕組みを作り上げて、一部の既得権益者だけが優遇される仕組みが出来上がっている。

じゃ~それを悲観しているだけでいいのか?

って、言うのは俺的には嫌なんで、自分で今出来ることをやって、少しでも賢く生きたら、所得が低くても少しでも質の高い生活が出来るんじゃね~かと思う訳。

今の家を購入したのも単純に、この低金利時代に上手くやれば家賃よりも安く支払いができるから、50歳を超えてるのにマンションの購入を決意した。
そりゃ、築40年と言ったら確かに古いけど、このマンションは世帯数も多い大きな建物で、まぁ~余程のことが無いと崩れないだろうし、管理がしっかりしていて、修繕積立費は去年まで大規模な外壁の工事をしていたのにも拘らず、未だ数十億円の残高が溜まっている。

で、結局、前の家賃よりも月々の支払いが下回り、ローンも15年で完済予定。60歳超えるやんって思われるかもしれないけど、生きている限り何処かに住まなきゃならん訳だし、幸い若い時に掛けていた個人年金が60歳から受け取れるので、定年してもバイト位で何とか生活出来るという算段があっての事。
ま、実際、年々どの企業も定年を60歳から引き揚げようとしているし、それが今の会社で適用されなくても、折角だから自分で何かをやりたいとプランは大きく2つ持っているんだ。

その1番が30代初めの頃から、ずっと田舎暮らしをしたくて、定年後は古民家を買って、自分で出来るところはリフォームして、その1部にcafeスペースを作って、クルマ好きなどの気の合う仲間が集まれる場所を作りたいんだな。
そこにこれまで趣味で集めたコレクションのCDを並べて、音楽が好きな人間と音楽談義もいい。

少し前にこの夢を始めて息子に話したら、

「それいいやん!俺、そこで弾き語りするわ!」

と言ってくれた。

本当は出来たら、自分の好きな中古車を仕入れて、好みの仕様に仕上げて売るような中古車屋を本当は一番したかったけど、今の情勢じゃ世界的なEV化の流れで、もしかしたら内燃機関の自動車は走れない世の中が俺の定年までに来るんじゃないかという不安もあるから、状況次第だけど、それを度返ししても、自給自足から始める農家でもやりたい。

ね、そんな風に考えたら、何か幾つになっても夢を捨てたらアカンって思いません?

そりゃ、俺は離婚して気楽だから言えるって、言われるかもしれないけど、言いたいのは趣味も真面目にやったら、何かその先に夢が見えて来て、そこに向かって生きようとする力が大事なんじゃないかと…

これまでの人生、無駄じゃなかったんだなって、心から言える日が来るように、その”夢”に向かって、もう少し頑張ろうって思ってます。

こんな長文、読んでくれる人が居るか分からないけど、最後まで読んでくださった方が居るのなら感謝です。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

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