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【日本の未来】私たちのやりがいや生きがいのためにある企業であり、資本主義であるべき

こんにちは。

未来の会社や資本主義について、ちょっと考えてみたいと思います。

50年後くらいのことにしてみましょうか。


▍「個性を最大限発揮する企業」であること

ちなみに逆に50年前というと、1970年代ですね。

高度経済成長期が終わり、石油危機による低成長の時代に入る頃です。

今にして思えば、このときに会社というあり方、資本主義のあり方というのを転換するべき萌芽があったといえるかもしれません。
さて、50年後、どうなっているのか?

大きな流れをみると、

「組織から個性へ」

になると思います。

まず組織があって、組織が要請する役割があり、それをパズルのように人間を当てはめることで効率性を獲得していく。

こうした時代から、未来ではまず「個性の発揮」が目指され、そのためにあるべき組織や社会が形成されるのではないかと思います。

そう考えると、「個性の発揮」・・・これを最大化するための組織は、できる限りフラットであることが求められるでしょう。

日本という社会は、中流意識が高いといわれていますが、実態は、「正社員(総合職)」「継続的非正規社員(一般職)」「限定的非正規雇用」の3階層による格差社会です。
特に会社組織にあっては、こうしたいわば「身分制」が存在していますが、未来の企業ではこのような区別はなくなっていると思います。

同時に、男性=正規、女性=非正規という「身分制」についても、未来の企業では男女の区別はなくなっていると思います。

性別や生まれや所属によらず、あくまで「個」としての能力の最大発揮が求められる社会になるでしょう。

これはとても良い変革である一方、旧来のレジームに依存した生き方は変革を求められると思います。

「専業主婦」というあり方は変革を求められるでしょう。
むしろ共働きが前提であり、男女による家事・育児対応の差もなくなっていると思います。

▍人間らしさを持つ資本主義へ

資本主義自体も変わっていくように思います。

新型コロナによる社会経済への影響から、株式市場では「短期的利益」よりも「持続可能性」が重視され、その動きは一層加速していくことになるでしょう。
また企業と社会のあり方についても、変わっていくと思います。

今は、いわば「企業が目的」の時代です。

企業が存続しなければ、雇用を守れない、だから企業を存続させるために、人間としてあるべき姿を犠牲にして勤労を求める時代、ともいえます。

未来の企業は「企業が手段」の時代です。

企業は、あくまで従業員の生きがいややりがいを表現するための「手段」です。

目的は従業員の生きがいややりがいの達成にあり、これらが達成される企業は、結果として存続するのだという考えが定着していくように思います。
私たちは産業革命直後の生活者を、女工哀史にみられるように一部の資本家による過酷な労働環境におかれているとみていますが、大きな流れとしてみた場合、この構図はまだ根本的変革を遂げたとはいえません。

50年後から、今をみたら、私たちが「女工哀史」をみているのと同じように、今の時代をみるのかもしれません。

格差が広がり、人々は、「カイシャ」という無機質なものを維持するために、自分を犠牲にして、そしてわずかな収入を得て、ささやかな贅沢に喜びを重ねる・・・

1%の金持ちと99%の庶民という構図は未だに変わっていません。
企業がもうけるために、プライベートや自己表現を犠牲にし、朝から晩まで労働力を捧げるということにおいて、前近代と変わらない構図が残されています。

あらためて企業とはそもそもなんのためにあるのか?

私たちは、そもそもなんのために生きているのか?

そのためにお金というのはどうあるべきで、どう配分されるべきなのか?

根源的な問いを重ねることで資本主義は新たな展開をみせていくと思います。

▍未来の資本主義

恐らく未来の資本主義は、「人が中心」になっていると思います。

それはもう「資本」主義とは呼ばないのかもしれません。

今は「資本」にせよ、「会社・企業」にせよ、「人間」よりも重視された社会といってもよいです。

企業などをみていると特にそう思います。

減益だとしても、株主配当だけは上げ続ける。内部留保は維持する。

このコロナの最中においてさえ、減収減益でも株主配当は維持。内部留保は吐き出さない。

内部留保は、いろいろ目的はありますが、こういう「非常事態」にこそ放出されるべきでしょうが、今の経営者にはそれができない。

明らかに、今の、特に大企業の経営者は「小粒」になっていると思います。

創業者のようなパワーや情熱はありません。

減収減益ならば、株主に堂々と主張すればよいのです。

今は厳しい時期だが、必ず復活を遂げる。それまでは一旦、配当は下げるが、信じていただきたい、と。

減収減益ならば、内部留保を放出して、雇用や賃金を守ればよいのです。

ところが、それが「怖くて」できない。

堂々と株主に主張できず、株価だけは下げたくないと、配当だけは維持。維持だけならまだしも減益にもかかわらず配当を上げる経営者もいる。

内部留保も、未来に対する不安に支配され、「今」できない。

大企業の決算説明会資料やアニュアルレポートなどをみても、やれSDGsだサステナビリティだ、働き方改革だといっても、総花的に書いてあるだけ。

SDGsでなにをやったのかと思えば、どこかでやったイベントの話がのっているだけ。働き方改革といっても、社内で一回だけやった大規模セミナーをして、「啓蒙を図った」というだけ。

足跡をみれば、その人がわかるとはいますが、美辞麗句の裏で、「実際にやってきたこと」をみれば、働き方改革の本質である「個人の力の最大化」についても、SDGsにおける「事業における利益と社会貢献の一致」という本質についても、なにも理解していないことがわかります。

「器が小さい」です。

社員向けの話をきいても、つまらない。

ひどい経営者になると「読書感想文」をいうだけ。

私は、こんな本を読んで、ここが感動した。これからの時代はこうだ・・・と。

未来のビジョンが語れない。

語ったとしても、サステナビリティだなんだと言葉だけ表面をなぞるだけ。

最後まできいてみれば、結局「売上が厳しいから、コストについて敏感になってくれ」・・・とこれがいいたかったのか、と愕然とする。

この時代を、50年後からみればどうなるのか?

私たちが、明治時代の渋沢栄一や五代友厚といった人々に比較して、その後の企業経営者が「満蒙開拓」の中に埋もれていってしまったと同じように、戦後復興の原動力となった世代から、2代目・世襲の経営者の時代になり、躍動感や革新性が失われていった・・・

そのように表現するのではないでしょうか?

未来の資本主義は「資本」や「カイシャ」が主語ではないでしょう。

「人・個人」が主語になります。

会社は、人々のやりがいや生きがいの集合体である。

ステークホルダーなどといいますが、すべてが大事といいつつ、株主至上に陥っている経営者に対して、未来の企業は、「もっとも重要なのは従業員の幸せや豊かさ」だとはっきりいうのではないでしょうか。

なんのための会社か。

それは人々が幸福で豊かになるため。

その手段が「会社」であり「利益」である。

あくまで「人々の幸福と豊かさ」、その一番身近な「従業員」。

この満足を得られない会社は、例え財務上健全で増収増益を重ねていたとしても、「だめな会社である」

そうはっきりと指摘される社会になっていることを期待しています。

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