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駆逐艦の悲願、敵艦隊との直接対決。日本海軍最後の圧勝を描く「ルンガ沖夜戦」解き放たれた駆逐艦隊、米重巡艦隊を撃滅。帝国海軍のお家芸水雷夜戦が炸裂。(読書&お絵描き&プラモデル②)
日本海軍と駆逐艦。駆逐艦第二水雷戦隊、日本海軍最後の圧勝を得る。
今回は日本海軍最後の圧勝となったルンガ沖夜戦を担った駆逐艦について書いていきたいと思います。
日本海軍のこだわり、水雷夜戦
日本は日露戦争以来、艦隊主砲決戦を念頭に置いていました。その作戦の中で、重要な位置を担っていたのが水雷戦です。敵艦隊主力との決戦の前に、水雷艇で夜戦を仕掛け、敵の数を漸減させます。あるいは、主艦隊をたたいた後、同日の夜、水雷攻撃を仕掛け、さらなる撃滅を図ります。東郷艦隊は日本海海戦でバルチック艦隊を叩きのめし、さらに、水雷艇夜戦で覆滅しました。以来、日本帝国海軍においては水雷夜戦はお家芸、伝統ある大切な戦術でした。
苦肉の策、最新の駆逐艦を配備。水雷戦を重視。
ロンドン軍縮会議で、日本の艦船保有量は厳しく制限されてしまいました。しかし、駆逐艦のサイズはそれに含まれず、海軍は駆逐艦を増強し、不利を補おうとしました。無駄をそぎ落とし、高速、高い性能、武装を積み込もうとし、欠陥の露呈と、事故、改善等、紆余曲折を経て、陽炎型最新駆逐艦を開戦前に配備していました。駆逐艦艦隊はその高速を活かし、戦艦に肉薄し、魚雷をたたきこむ水雷夜戦を「神技に至るまで訓練」していました。2500トン程度の駆逐艦は、戦艦の巨砲を食らえば、即座に戦闘不能です。しかし、自らの数十倍もデカい戦艦を雷撃一撃で屠る。差し違える覚悟で戦うというのが駆逐艦乗りの気概でした。主力艦隊決戦思想に加え、この駆逐艦水雷戦運用は日本帝国海軍の捨てることができない姿勢、思考でした。
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駆逐艦の最大の武器93式魚雷
さらに、日本海軍は最新兵器を配備していました。それは各国の追随を許さない93式魚雷です。世界各国の基準をはるかに上回る高速、射程距離、作薬量(破壊力数倍)を誇る極秘兵器です。しかも、特殊な酸素技術を使用し、魚雷の航行に気泡が生じません。つまり、目視で接近の確認が極めて困難な魚雷です。これが何を意味するか?つまり、日本の駆逐艦は高速性能があるうえに、さらなるアウトレンジ(12000メートル射程)から水雷を放つことが可能。しかもそれは、高速50ノット近くで(時速90キロ)接近してくるうえに、隠密航行ができ、搭載火薬量は数倍という・・お見舞いされる側としては、悪夢でしかない魚雷だったのです。
アメリカのいかなる巨大戦艦であろうと、この魚雷一撃で、駆逐艦に撃沈される恐れが生じました。大ザメが捨て身で食らいついてきた雑魚に叩きのめされる・・。このレベルの魚雷を所持しているのは日本海軍のみでした。
駆逐艦乗りの水雷長の中にはこの93式魚雷をたたきこむことだけを信念とし、海戦の前に撫でさすり、ピカピカに磨き上げていた姿も目撃されています。最新型駆逐艦はこの大型の93式魚雷を18発搭載していました。これこそが駆逐艦を勇敢たらしめる名刀、武器だったのです。
いざ、実戦。しかし、時代が変わっていた・・。戦艦と刺し違えることができない。駆逐艦乗りたちの苦悩。
第二水雷戦隊は最新艦を配備し、(駆逐艦部隊の華)といわれました。機動部隊の作戦、戦艦の突撃、輸送船などの護衛、対潜水艦警戒等、駆逐艦の活躍は目覚ましいものでした。しかし、いつまでたっても、その懐刀である93式魚雷を大物の敵、重巡、戦艦にじかに、遭遇戦において、ぶち込む機会は訪れませんでした。
艦隊同士が砲撃、水雷合戦を演じる以前に、航空制空権制覇が勝敗を左右する時代になっていました。制空権に制海権は付随し、艦船は航空直衛なしでは行動できない事態となっていたのです。こうした空からの攻撃に戦闘艦各種は、あまりにも無力でした。航空直衛の傘なしに、もはや、安全はありませんでした。加えて、敵潜水艦の活動も活発となり、空と水面下に危険が潜む状況でした。
日本の航空勢力は、すでに限界を超えて、漸減し続けていた。
日本のガダルカナルに最も近い、一大航空拠点はラバウルでした。しかし、単純計算で言っても、1000キロ強あり、そこから、片道3時間かけてガダルカナル突入の艦船の直衛に航空機は飛来しました。わずか、1時間も満たない直衛の後、帰らなければなりませんでした。仮に、そこで、空中戦となった場合は増槽タンクも捨ててしまいますし、燃料消費は三倍近くになりますから、さらに条件が狭まります。ガダルカナルに接近する一番きつい敵航空機飛来地域まで、日本側は直衛機を派遣できませんでした。つまり、ガ島に接近する駆逐艦、輸送艦は最後の数時間は空の守りなく、無防備で航行することになります・・。
記録によると、日本側の出しえた航空戦力はガ島消耗戦の初期でさえ、空襲に稼働したのは、ゼロ戦18機、陸攻、爆撃機27機、合計、45機程度でした。
繰り返しますが、この数が、日本が割くことができたガ島攻撃、および、直衛航空勢力の最大値です。以後、漸減し続けていきます・・。
カダルカナルの戦いが激しくなった8月から10月の2ヶ月で30機を喪失していました。残り10機に満たない数の飛行機だけがこの方面を支えている日本の航空勢力でした。
ドラム缶輸送の際、第二水雷戦隊の直衛には(ラバウルから)ゼロ戦4機が、(ブインから)水上機11機(水上機!まで直衛に駆り出され・・)と交代し、当たりました。それも、1時間に満たない空の盾でした。そんな状態でした。それでも、ラバウル基地をはじめ航空側では、精いっぱいやったのです。
ガダルカナル以前、ミッドウェーで四隻の空母と2百数機の艦載機を一気に失い、かけがえのないベテランパイロットを無くした帝国海軍には米国の航空勢力を食い止め、反撃に転じるだけの航空戦力を再編する力はもはありませんでした。
ガダルカナル輸送船護衛、および、兵員輸送に従事
日本側はアメリカのガダルカナル進出は他面作戦の一つに過ぎないと、軽視していました。海軍と陸軍の大規模な合同作戦は実施しましたが、兵員輸送、兵力派遣を小出しにし、輸送船団、上陸兵をうしまいました。もはや、大兵力を重砲とともに揚陸しないと、勝ち目がない状況となって、それに気が付いたころには、ガダルカナルの飛行場には十分な米軍機が配備され、制空権を完全に掌握されてしまいました。制空権がないところに制海権はなく、潜水艦の出没も相まって、ガダルカナルに兵員、弾薬はおろか、糧食を補給することすら、困難になりました。日本側は相次ぐ戦いで、機動部隊を損失し、航空機による制空ができない分、足の遅い輸送船ではガ島につく前に、魚雷、航空機攻撃で撃沈されてしまいます。貴重な兵隊の命、重火器、糧食がむなしく、海の底に沈みました。
駆逐艦はこれらの護衛、そして自らも、兵員輸送、糧食、弾薬輸送に任じました。足が遅い輸送船の代わりに、駆逐艦が兵員、兵器、糧食輸送を代行するようになり、ガダルカナル島では、隠密輸送がメインになってしまいました。ショートランド島から、夜陰に揚陸できる時間にガ島に接近し、離脱、夜明け前に航空機航続範囲から逃れるというネズミ輸送に従事。アメリカ側は夜中の毎回、時間きっかりに行動する日本の駆逐艦部隊を「東京急行(Tokyo Express)」と呼んでいました。
駆逐艦の誇り93式魚雷を半分、積み下ろして、ドラム缶輸送に従事。駆逐艦はただの運送屋だったのか‥‥の屈辱
輸送船は使えず、それでも、飢えている将兵を救うしかない・・司令部は、アメリカの使用済みのドラム缶を消毒し、240缶、4.4トン分の食料を詰め込み、その輸送を高速の駆逐艦に委ねました。第二水雷戦隊司令官田中頼三少将は「駆逐艦は水雷戦に特化しており、輸送船ではない。輸送スペースも少ない。また、航空直衛なしにそのような強硬作戦を実行し、艦を損なうことはできない。」と、意見を具申しましたが、命令が下れば仕方ありません。
240缶、わずか4トン弱の荷物を6隻に分担し、積載しましたが駆逐艦の誇りといも言うべき搭載18発の93式魚雷の半分、8発を物資、人員輸送のスペースのため、降ろして任務に準ずるという状況でした。牙を半分もがれたようなものです。駆逐艦は高速機関、魚雷スペース、兵器の充実を狭い艦にぎゅうぎゅうに詰め込んだフネです。本来、輸送に向いていないにもかかわらずです・・。
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「会敵の可能性は大(ドラム缶の)揚陸に拘泥せず、敵、撃滅に努めよ」田中司令官発令。駆逐艦の使命を重視、優先。
田中司令官は駆逐艦の最大の役目はデカい艦船、戦艦を水雷で撃滅するということを忘れていませんでした。作戦実行時、水雷戦隊に「ガ島ドラム缶輸送に際し、敵と出会ったなら、たとえ、ドラム缶揚陸中でも、直ちに、撃滅する。ドラム缶輸送にこだわらず、迷うことなく、敵を攻撃せよ」と全艦に発令しました。実際、夜戦で鍛えた日本の駆逐艦部隊は最新レーダーを装備していたアメリカ重巡艦隊を先に発見します。おりしも、この時、水雷戦隊は、ルンガ沖にて、任務のドラム缶を投ずる準備中でした。「司令ッ」と見敵報告を受けた際、田中少将は迷うことなく「揚陸中止!戦闘!突撃せよ!!」と命じました。この命令を受け、駆逐艦部隊はドラム缶輸送任務を中止、直ちに戦闘活動を開始したのです。
第二水雷戦隊駆逐艦隊、米国重巡部隊を撃滅。わずか10分程度で、勝敗が確定。日本海軍の圧勝となる。
戦いは無情です。いち早く、敵を捕捉し、水雷戦闘を開始した日本海軍が圧勝しました。勝敗はわずか10分程度で確定してしまいました。駆逐艦部隊は、ドラム缶輸送を開始しようとしており、機関も落としていました。戦闘状態には極めて不利な状況です。さらに、荷物を積むために、各艦、93式の搭載も19本から、半分の8本・・と、万全ではありませんでした。にもかかわらず、先に敵を発見し、迅速に、戦闘行為を開始しました。ここに日本海軍の日本海戦以来の伝統であり、お家芸、こだわって極めに極めて来た駆逐艦水雷夜戦が余すことなく炸裂しました。駆逐艦の名目如実、これこそ駆逐艦の戦いぶりという完ぺきなお手本となりました。そしてこれが日本海軍の最後の圧勝経験となるのです・・。
こうしたガ島の背景、駆逐艦の歴史等を詳しく述べながらも、駆逐艦の活躍、日本海軍最後の圧勝を描いたのが半藤一利さんの「ルンガ沖夜戦」です。
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半藤一利さんの作品は二冊目でした。(ノモンハンの夏に次いで)僕がこの本で素晴らしいと感じたところは著者の駆逐艦に対する畏敬の念、哀れみを感じる点です。駆逐艦、駆逐艦乗りを礼賛した本には初めて出合いました。それが僕の心を打ちました。田中将軍にも取材し、多くの関係者の声も収録されていました。駆逐艦の歴史を知る入門編の一冊としても最適です。
アメリカ側からむしろ評価された田中少将
田中司令は駆逐艦の任務に反するドラム缶作戦に関し、上層部に意見具申の形でしたが反論してしまったため、自らが指揮し、圧勝したルンガ沖夜戦の後、更迭されてしまいます。
また、水雷戦を指揮する時、日本海軍の指揮の鉄則、総督が真っ先に位置する、旗艦を先頭に置かなかったという点も、批判されました。旗艦長波は艦列の真ん中に位置していた・・それが逃げ腰であるという批判。そして戦術で見た時、確かに、田中少将の指揮、決断は、駆逐艦と93式最新魚雷を最大限に活用し、アメリカの重巡部隊を完膚なきまで、たたきました。しかし、作戦本来の「ガダルカナル島の兵員にドラム缶の糧食を届け、飢えから救う」点に関しては、揚陸を中止しており、戦略的に失敗です。田中頼三少将の日本側での評価はかなり厳しいものになっています。
すでに日本側には安定して、糧食、弾薬、兵員をガダルカナルに届ける手段はなくなっていました‥。あの時、たった4・4トンの糧食を、捨て身で、ガ島に届けられたとして、戦局は変わったでしょうか・・。
彼の言動を見ると「どんな任務より、駆逐艦の使命は敵艦を水雷で撃滅すること」という芯が貫かれています。ドラム缶輸送作戦の際も、前もって「輸送だけにこだわるな。敵に出会ったら、最優先で、これを撃滅する」と事前に各艦長に語り、事実、敵を発見した際、即座に戦闘命令を下しています。
人柄も謙虚であることが、著者の取材でうかがわれました。「私はただ命令しただけ。戦闘とね。すべて、あの戦は部下がやってくれた」それだけなんだと。
そんな日本より、アメリカ側で田中少将は、高く評価されています。アメリカ側は日本の指揮官の1,2として田中頼三少将の名を挙げ「不屈の田中」と絶賛しています。田中少将の突撃命令のタイミングが絶妙であったことを、高く評価しました。アメリカにしてみれば、重巡部隊、そして、それを指揮したライト少将に落ち度はなく、それでもここまでやられたとなると、そう駆逐艦部隊の司令官を評するしかないのでしょう。
その後の駆逐艦たちの命運・・・悲惨
その後、第二水雷戦隊の駆逐艦を含め、多くの駆逐艦は任務に順ずる中、撃沈され海に消えました。ルンガ沖夜戦のような戦術、技巧的な勝利はあっても、戦略なき戦い、物量戦、航空直衛なしの過酷な作戦において、駆逐艦だけの活躍で覆せる分は少なすぎました‥。
終わりに
速力を活かし、一撃必殺の肉薄攻撃で、敵を刺し違えてもやるという駆逐艦乗りの生き方、使命に加え、限界までそぎ落とされたスマートな船体は見る者を魅了します。僕はどんな日本海軍艦船よりも、駆逐艦が好きです。
オマケ・子供以来、37年ぶり、プラモに挑戦。タミヤ/陽炎 到着!
この本でも重要な役割を担ったのはこの陽炎および(陽炎型)を含む、駆逐艦たちでした。本を読んで、たまらずプラモデルで作りたくなり・・買っちゃいました!
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12歳のころまで、大日本帝国軍の航空機、艦船(戦艦、空母、零式戦闘機)は多く作りました。駆逐艦は渋すぎて、当時、選びもしなかったのでいい機会です。37年ぶりのプラモデルです!
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オマケ2 ガダルカナル戦記を読み始める
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多くのIFを見つけられそうな気がします。大作なうえに、史料価値もあると思います。今回の駆逐艦たちも、一連のガダルカナル作戦には深くかかわっていました。読み始めています。
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