塙山キャバレーに配達してた頃
私は二十歳の大学生の頃、今から27、8年前の話であるが、その後NHKのドキュメント24時の番組やフジテレビのドキュメンタリー番組、ザ・ノンフィクションの取材を受けることになった、地元でも有名な飲み屋街、塙山キャバレー、通称塙キャバへ軽トラックを毎日運転してお酒や灯油などの配達をしていた。
私がアルバイトをしていた酒店が塙山キャバレーの全店舗を取り仕切っていた関係で、ビールや日本酒、焼酎やウイスキー等の注文を聞き回り、必要な種類、本数をその都度、配達して回っていた。
店舗の家賃代などの回収も私が社長の代わりに行っていた記憶がある。
塙山キャバレーとは、東京でいうところの新宿ゴールデン街のようなところであるが、キャバレーという華やかな名称とは程遠く、実際は貧しい戦後バラックの集まりである。
そこで特別な物語があった訳でもないが、あの頃の活気を今でも鮮明に思い出す。
私は普段、酒を飲む為に出歩くことをしないし、また家でも酒を飲まないので、バイトを辞めてから塙山キャバレーに足を踏み入れることは一度としてないが、車で通り過ぎる際に見る限り、私が配達をしていた頃とは看板の名前も変わっていて、店舗の中身も様変わりしているようだ。
外からは、客入りがあるのかどうかまでは分からない。
昔は定年退職したおじさんが夕方から飲みに来ていたものだ。
店のマスターや看板女将も皆、気さくで明るく好い人ばかりであった。
お兄ちゃんお兄ちゃんと声を掛けられていたあの頃が懐かしい。
アルバイトをしていた酒店は自宅から程近いが、入り組んだ団地の真ん中にあることもあって、普段は目にすることもなく、バイトを辞めてからは訪ねることも無かった。
我ながら不義理も甚だしいと思う。
そして、つい数日前、晴天にて、初夏の陽射しを浴びながら、嘗てお世話になった酒店まで散歩のついでに立ち寄ってみようと思い立った。
だが、私はそこで衝撃的な光景を目にすることになった。
酒店は完全に廃業していたのであった。
お店の前に立ったその時分、私は呆然としてしまった。
時の流れの残酷さに私は大袈裟でなく戦慄した。
嘗てお店にあった中型トラックや私が配達で毎日運転していた軽トラックも既に無く、売却されているようだった。
社長の自家用車のクラウンの姿も無く、代わりに新車とおぼしき日産のノートが一台置いてある。
だが、人の気配というものは全く無い。
お店の前に何台も鎮座していた自動販売機の数々も全て撤去されていた。
二階のカーテンも全て閉めきられている。
私はてっきり、当時の思い出のまま、社長も奥さんも元気に変わらず過ごされているんだろうなと、どこかでそんな風に呑気に思い込んでいた。
私は自身が打ちのめされた気分になった。
考えて見れば、社長と奥さんの正確な年齢は知らないが、当時で五十代半ばから後半だったとして、もう優に80歳は超えているはずである。
無理もない話だった、当然の話だった。
社長と奥さんのどちらか、あるいはお二人とも施設にでも入られたのかも知れない。
自宅に息子さんは居られるのではないかと思う。
社長も奥さんも私も、他のアルバイトの人も、皆で汗水流してビールケースを運んだあの日々の面影は今はもう跡形もない。
何かの話の流れの中で、私が「無理なものは無理だから」と言ったら、奥さんに「あんたらしいね」と返された一言が今でも耳に残っている。
本当にお世話になった、至らないところだらけだった私を我慢強く使って頂いた。
感謝してもしきれない。
この場を借りてお礼を言いたい、ありがとうごさいました。