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『ワクチン接種の歴史と病理学1巻』要約①序文~第2章

初めてのnote記事の投稿になるが、自己紹介などしない。
ある偉人の偉業を知ってしまったので、後世に伝えなくてはいけないという思いに駆り立てられてキーボードを叩く、それだけだ。


どうやらSNSでは、今でもワクチン推進派と反対派で論争が起きたりしているようである。

どうやらと書いたのも、個人的にはその論争にはとっくに興味を失ってしまっている。
いつまでやってんだろって感じである。

ワクチンを推進するにも反対するにも、ワクチンの歴史と、ワクチン接種によって体内で何が起こるか、少なくともこの2点の概要を知らなければ薄っぺらいものになってしまうし、各種のワクチンで個別の議論が必要になってしまうだろう。

個別の議論など必要ない。

全て良い or 全て悪い なのだ。

間違った土台の上に築かれたものは全て間違っているのだ。


ということで土台を見ていこうではないか。
今回は予防接種の歴史について、表題の本の内容をまとめようと思う。

予防接種は天然痘の予防法として登場したものである。
よって天然痘の予備知識が多少必要となる。


■天然痘

天然痘(てんねんとう、variola, smallpox)は、天然痘ウイルス病原体とする感染症の一つである[1][2]疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年大村藩の医師の文書が初出である[3]ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い[注 1][4]。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。1980年世界保健機関(WHO)により根絶が宣言された。人類史上初にして唯一、根絶に成功した感染症の例である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%84%B6%E7%97%98

非常に高い致死率であること、膿疱が生じ、傷跡が残ることが特徴的。
命の危険だけではなく、傷跡により美貌が損なわれることをおそれる人も少なくなかっただろう。
予防法があるならば縋りたい気持ちもわかる。


さて、本の紹介に移ろう。

医師であり微生物学者でもある、Edgar March Crookshank氏によって1889年に書かれた『History And Pathology of Vaccination(ワクチン接種の歴史と病理学)』という2巻の本だ。。

ネットで探せばすぐにヒットし、例えば以下のサイトなどで無料で読むことが可能だ。

この本は、現代では根絶されたと言われている天然痘について書かれており、この病気の性質と予防法・養生法・口伝などについて、徹底的な一次資料の引用と言及を用いてまとめられている。


■一次資料

学問分野としての歴史研究において一次資料(いちじしりょう、: primary source, original source)とは、対象とする時代において制作された工芸品文書日記写本自伝録音録画、その他の情報源を指す。これはそのテーマに関する大元の情報として利用される。(中略)

一次資料は、それを引用言及補足した二次資料とは区別される。一般に、事実に後知恵や歪曲を加えた記述は二次資料である[2]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%AC%A1%E8%B3%87%E6%96%99

そう、歴史を調べるならば一次資料が最も重要になってくる。


クルックシャンク氏は、インターネットなど存在しない時代に、天然痘に関する膨大な一次資料を集めまくって、2冊の本にまとめあげたという点で、とんでもない偉人である。

つまり今回紹介する本は、天然痘の歴史書として非常に重要な本なのだ。
この本の1巻のうち、特に重要そうな部分を300ページほど読んだ(ほぼ機械翻訳だが。。。)ので、要点をまとめてみたい。


まずは予防接種に対応する英単語が主に3種類使われているので、ここは押さえておきたい。

■Inoculation

予防接種全般に使われる単語。

■Variolation

人痘接種法を表し、天然痘の患者から採取した膿やカサブタなどを接種するもの。

■Vaccination

牛痘接種法のこと。ラテン語でVacca=牛を意味する。牛痘の牛から膿を採取し接種するもの。



現代では牛の要素などどこにも存在しなくても、予防接種全般のことをワクチンと呼んでおり、本来の意味など消え去ってしまっている。

しかしこの本においては、VariolationVaccinationは全く異なり、使い分けられているので、この記事でもこれ以降はなるべく使い分けをしていく。


では予備知識はこれくらいにしておいて本題の
『ワクチン接種の歴史と病理学1巻』
へと移ろう。

ちなみに私が読んだものはクルックシャンク氏の原典ではなく、パトリック・ジョーダン氏が全文を書き写して解説を加えたものだ。
彼も偉大な人物なのでいずれ紹介したいが、今回はパトリック・ジョーダン氏の解説には触れないことにする。

なお、

  • 大部分が機械翻訳であるため、誤りを含む可能性があること

  • 時代や地域の違いによる共感覚やニュアンスなどを伝えられていない可能性が高いこと

  • 個人的に重要だと思う部分をまとめているので、筆者の意図と異なる要約や抜き出しをしてしまう可能性があること

は断っておく。

長すぎると読み手も書き手もダレるので、本記事では序文~第2章までとする。





序文


本当は全文引用したいのだが、3000文字以上と長くなってしまうので要約する。



1887年に牛痘(※天然痘に似た牛の病気)が半世紀ぶりに流行し、私はこの伝染病の歴史と病理を調査することになった。

この大発生の原因は、牛が天然痘患者から罹患したものではないことが証明された。

牛痘の性質と起源に関する一般に受け入れられている記述は、純粋に理論的なものであると確信した。

私の観察はクレイトン博士(※反ワクチン本を出版した医師)の歴史的研究の結果として得られた結論を支持するものなのか、それとも反論するものなのかという疑問が生じた。

国立予防接種施設で使われていたリンパの源の詳細を得ることができず、接種担当者も知識を持ち合わせていなかった。私の研究の初期段階でシーリーが1840年に述べたことは真実であると感じた:
「牛の膿疱の自然史に関連する多くの点について、我々が持っている情報は不完全であり、その知識を改善するためには忍耐強い調査が必要である。」

1888年1月、王立外科大学の図書館でベイリー司書が、私が興味を持ちそうな小包を見つけた。
その中には、ハンター(※)からジェンナー(※)への手紙と、ジェンナーの『Inquiry』の原稿と思われるものが入っていた。
その原稿を注意深く読んでみると、出版された『Inquiry』とは多くの点で異なっていた、それは実際、ジェンナーが王立協会に提出した文書であった。
私はこの論文の内容と、ジェンナーが天然痘の予防接種を牛痘の予防接種に置き換えることを最初に提案した根拠となるわずかな証拠に強い衝撃を受け、バロン(※)の『伝記』や、現代の医学・科学雑誌に掲載されたこの問題に関する原稿や記事から、ジェンナーの生涯と予防接種の初期の歴史を注意深く調べるようになった。

小包が大学の図書館にあった経緯が説明される。


※エドワード・ジェンナー : 超重要人物なのでwikipwdiaを引用

エドワード・ジェンナーEdward Jenner1749年5月17日 - 1823年1月26日)は、イギリス医学者天然痘の予防において、それまで行われていた人痘接種法より安全性の高い種痘法(牛痘接種法)を開発した。近代免疫学の父とも呼ばれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC

※ジョン・ハンター : スコットランドの外科医でジェンナーの師

※ジョン・バロン : ジェンナーの友人で医師、ジェンナーの伝記を出版


私は次第に、牛痘をはじめとするワクチンリンパの発生源に関する開業医の知識の少なさや、医学と獣医学の両分野における権威者の教えや意見が対立していることに深い感銘を受けるようになり、自分自身でこのテーマを調査することを決意した。
パリ、ベルリン、そしてこの国の古書店から、ワクチン接種の初期の歴史を扱った多くの著作を短期間のうちに入手することに成功した。

彼らは同時に、天然痘の予防接種に関する多くの著作を発表した。こうして私はこのテーマにも興味を持つようになり、ワクチン接種の歴史や病理学との関係がすぐに明らかになった。

1888年2月、私はフランスの主要な権威に相談し、ボルドー・リンパの歴史と、この国では牛痘が絶滅したと思われていた時期に同国で発生した牛痘の歴史を、可能であれば入手しようと決心した。

フランス各地で様々な情報を入手した後、イングランドでの調査を再開した。
この国で牛痘が発生した事例に関する追加情報を入手し、この病気がイングランドでは絶滅していると信じられているのは、農家が(明白な理由から)発生を隠蔽しようとした結果であり、その試みはしばしば成功した。
私はまた、パーベック島のワース・マトラヴァースを訪れ、可能な限りの現地情報を入手することで、ジェスティ氏(※実はジェンナーより先に牛痘接種を行なっていた農夫)の歴史を追った。

以下謝辞。

エドガー・M・クルックシャンク
24、マンチェスター・スクエア、W、
1889年4月




序文 まとめ

  • 牛は天然痘患者から牛痘を罹患しない

  • 接種担当者は接種に使用しているものの中身を知らない

  • ジェンナーの『Inquiry』には複数のバージョンがある

  • ジェンナーが予防接種を置き換える提案をしたわずかな根拠に強い衝撃

  • 18世紀から予防接種に賛成派と反対派がいて対立

  • 農家が牛痘の発生を隠蔽していた



序文から情報量が多い。
では本編を読んでいきたい。



第1章 外国における人痘接種の歴史


この章ではイギリス以外の様々な国での、天然痘と人痘接種の歴史について書かれている。

この本の説明のためにも、最初の一次資料の引用まで丸ごと引用する。

天然痘の予防接種の歴史は非常に古い。経験的に、天然痘に二度かかることはないことがわかっていた;しかし、人為的に痘瘡を誘発する方法がいつ、どのようにして発見されたのか、また、この予防法がどこで最初に採用されたのかは、まったく不明である。アラビアの医師が天然痘の性質と治療法を知っていたことから、おそらく彼らが最初に接種による発病を思いついたのだろうという説がある。この発見は、カスピ海東岸のボハラに住んでいたとされるアヴィセンナの功績とされ、この習慣はタタール人や中国人商人によってスラート、ベンガル、中国に伝わり、イスラム教の巡礼者たちによってメッカに伝わったと考えられていた。しかし、ウッドヴィル(#1)によれば、この説を裏付けるものはほとんど何もなく、サーカシア人(サーカシアン)やカスピ海近辺の国々の住民が、他の国の人々よりも長く予防接種の技術を実践していたという証拠はない; 1724年、ダントレコルは、タタール人はこの治療法を知らなかったと述べている。
コンスタンチノープルでは、予防接種の起源について、同じように相反する意見があった。ある者はモレア地方から老婆によって伝わったと言い、またある者は、最初に接種が行われたとされるサーカシアから輸入されたと言った。ミード博士(#2)は後者の説を支持していた。

"私はしばしば、どうしてこのような考えが、医学に関することにほとんど無知な人々の頭に浮かぶのか不思議に思っていた。私が調べた限りでは、これはサーカシア人が発明したもので、その国の女性は美に秀でていると言われている; そのため、特に貧しい人々の間では、若い少女を奴隷として売り、近隣の土地に連れ去るのが一般的である。そのため、この疫病にかかった女性は、若ければ若いほど、美しさも命も危険にさらされないことが観察されたため、このような感染方法を考案し、商品がより大きな利益をもたらすようにした。"

#1 ウッドヴィル、天然痘の予防接種の歴史、35ページ、1796年
#2 リチャード・ミード博士の医学的功績、2巻143ページ、1765年

このように、どの一次資料から情報を得ているのかが明記されている。
""内はミード博士の文献からの引用となっている。

本記事での出典を記載しない引用は
全て『ワクチン接種の歴史と病理学1巻』からの引用とする。


では最初の例なので、サーカシアでの人痘接種とはどのようなものなのか、全文を見ていただこう。

サーカシアでは - 1711年、デ・ラ・モトレイ(#)は、4、5歳のサーカシア人の少女にこの手術が行われるのを目撃した。その少女は、ドライフルーツで瀉血された後、天然痘に自然感染して痘疹が熟していた3歳くらいの男の子のところに運ばれた。手術は老女が行った;サーカシアでは高齢の女性は医術の訓練をするからである。 痘瘡の接種方法については次のように説明されている。

"彼女は3本の鍼を結びつけ、まず胃の下を刺し; 第二に心臓の真上; 三番目にへそ; 第四に右手首; 五番目は左足のくるぶしである。同時に、病人の痘疹から膿を取り、出血している部分に塗り、まず、乾燥させたアンゼリカの葉を滴下し、その後、若い子羊の皮で覆った; そして、それらをすべてよく縛り付けると、母親は娘を、私が見たところ、サーカシアのベッドを構成する皮のカバーのひとつで包み、こうして抱きかかえた娘を自分の家まで運んだ; そこで娘は暖かくされ、クミンの花を3分の2の水と3分の1の羊乳で作ったパンがゆだけを食べ、肉や魚は食べず、アンゼリカ、ブグロスの根、甘草で作ったハーブ茶のようなものを飲むように言われた; このような用心と養生をすれば、天然痘は一般に5、6日で非常に良好に治ると彼らは断言した。"

# デ・ラ・モトレイはヨーロッパ、アジア、アフリカの一部を旅する。2巻、75ページ。1723年

被接種者に傷をつけ、そこに天然痘患者から取り出した膿を接種し、軽い天然痘に罹患させる、という習慣だったようだ。

これはサーカシアでの例だが、同様に世界各地での人痘接種の方法や養生法、接種後の症状、天然痘にまつわる言い伝えなどが書かれている。

情報量は国によってバラバラだが、以下の国や地域について言及されている。

  • コンスタンチノープル

  • トルコ

  • アフリカ

  • インド

  • 中国

  • フランス

  • スペイン

  • イタリア

  • ドイツとオーストリア

  • オランダ

  • デンマーク

  • スウェーデン

  • スイス

  • ロシア

  • アメリカ

重ねて言うがインターネットのない時代だ。
これだけの情報を集めるというのは、偉業としか言えない。


さて、ここからは重要そうな部分を抜粋していこう。

"一般に提唱されている最大の反対意見は、患者が二度目に感染するのを防ぐことができるかどうかということである。しかし、これに対する答えとしては、この病気に二度、あるいは同じように罹った人はほとんどいない、あるいは一人もいないということである。というのも、二度目に感染した場合、一般に「ろくでなし痘(Bastard Pox)」や「豚痘(Hog Pox)」と呼ばれる、中身がなくやせ細っていて、膿や悪性はほとんど含まれていない痘瘡が証明されるからである。"

ケネディ『外的治療に関する試論』153頁。1715年、ロンドン。

「天然痘に二度感染することはない」という言い伝えがあったようだ。
二度目の感染は症状が軽かったらしい。


"当初、より思慮深い者ほど、この習慣の使用には非常に慎重であった。しかし、この8年間、何千人もの被験者に幸福な成功をもたらしていることが判明したことで、今ではすべての疑惑や疑念を払拭している。あらゆる年齢、性別、さまざまな気質の人々、さらには最悪の体調の人々にまでこの手術が行われたにもかかわらず、天然痘で死亡した人は一人もいなかったのである;同時に、一般的な方法で患者に感染した場合は非常に致命的であり、罹患者の半数が死亡した。このことは彼自身の観察によって証明されている。
次に、この予防接種を受けた人は、ごくわずかな症状しか出ないという、病気だと気づかない人もいる;また、この予防接種を受けると、顔に傷や穴が残ることはないという。"

ウッドワード, Phil. Trans., 1717, vol. xxix., for the year 1714, 1715, 1716, pp. 72-4.

接種慎重派もいたが、接種後に天然痘で死んだ人は一人もいなかった。
傷も残らない。
自然感染だと致命的。


"この伝染病の入手方法は、次のような理由から「天然痘を買う」と呼ばれている。予防接種を受ける子供がレーズンやシュガープラムなどを数個持って行き、それを膿を取り出す子供に見せて、その代わりに痘痕を何個くれるかと尋ねる。交渉が成立すると、手術に移る。"

ラッセル、Phil. Trans., vol. 1 viii., pp. 140-50.

「天然痘を買う」という習慣があった。


コールデン氏(#)は、予防接種の起源はアフリカにあると考えた。セネガルの黒人たちは、天然痘が流行するたびに、子供たちの腕に接種した。接種を受けた人々は動物性の食物を控え、ライムの絞り汁で酸性にした水を自由に飲んだ。
アフリカの一部の地域でも、同様の習慣があった。ここでも「天然痘を買う」と呼ばれ、天然痘の膿を取り出した人が金銭やその他の物品を受け取らない限り、予防接種は何の役にも立たないという迷信があった。

# コールデン、Med. Obs. And In., vol. i., p. 22.

膿を取り出した患者が金銭や物品を受け取らない限り、予防接種は何の役にも立たないという迷信があった。


"膿疱の接種は、手の親指と人差し指の間にわずかな傷をつけることによって行われる。この手術を受ける人は、好意的な友人や隣人から感染を受け、自分の膿疱を2つか3つ売って、同じ数のナッツや飴などの些細なものと交換するよう懇願される。これを「天然痘を買う」と呼ぶ;ユダヤ人の間では、予防接種をしなくても、購入だけで感染の十分な準備になると聞いた。

しかし、私が行ったことのあるバーバリーやレヴァントでは、あまり評判がよくない、ほとんどの人は、それは『救い』への誘惑であり、自然がそれを受け入れる気になる前に災いを求めることだと考えている。そのため、この習慣をやめさせるために、多くの物語が語られる;特に、膿疱を2、3個だけ購入した美しい若い女性の話である。確かに彼女は、支払った金額以上のものは持っていなかった;しかし不幸なことに、その膿疱は彼女の目の上に落ち、彼女はその実験によって失明してしまった。"

ショー『バーバリーとレバントのいくつかの地域に関する旅行と観察』265ページ。1738年。

ユダヤ人の間では購入のみでOK、接種の必要なしとの噂。
地域によって反対意見もある。
接種による痛ましい事故も起きている。


"(前略)そこから天然痘の膿を含ませた小さな綿球を取り出し、ガンジス川の水を2、3滴落として湿らせ、傷口に貼り付け、わずかな包帯で固定し、6時間動かさずにそのままにしておくように命じる;その後、包帯を取り、綿球が落ちるまでそのままにしておく。

二重のキャラコ布に包んで保存する綿は、前年に接種された膿疱の膿で飽和している;新鮮なものでは決して接種しないし、どんなに種類がはっきりしていて軽いものであっても、自然な方法でかかった病気のものでも接種しないからである。"

ホルウェル『東インドにおける天然痘の接種法についての記述』8-19ページ。1767年。

インドでは古い膿を接種に用いる。


中国人はこれを"天然痘の播種"と呼び、2~4個の乾燥した膿疱またはかさぶた(?)を取り、その間に少量の麝香(ムスク)を入れた。かさぶたは壷に入れて数年間保存したが、最近の膿疱に頼る必要がある場合は、フタナミソウ属の植物と甘草の根の煎じ汁の蒸気にさらすことで「膿の毒気」を修正することが望ましいと考えられた。乾燥させて粉末にし、ペースト状にしたかさぶたを使うこともあった。全体を綿で包み、患者の鼻孔に挿入した。

ウッドヴィル, loc cit., p. 54.

中国でも古い膿かかさぶたを使用。


フランスでは予防接種賛成派と反対派がバチバチなので、全文引用させていただく。

フランスでは - 言い伝えによれば、フランス各地、特にオーヴェルニュ地方とペリゴール地方では、古くから農民の間で予防接種が行われていた。1717年に執筆したボワイエ博士が、接種に注目した最初の作家である。その6年後、ド・ラ・コステ博士によってイギリスでの接種の成功がパリで発表され、その結果、ソルボンヌ大学の主要な医師たちによって、公衆のために接種を試みることは合法であるとの宣言がなされた。その直後、ヘッケ博士がRaisons de doute contre I'inoculation(予防接種に反対する理由)と題する論文を発表し、アメリカのボストンでの失敗の報告や、ロンドンでの天然痘の死亡率の高さがこの新しい予防接種のせいであるとされたことと共に、フランスではすぐに予防接種の評判が悪くなり、実験計画は中止された。1752年、モンペリエのブティニ博士が発表した論文により、この話題に再び注目が集まった。その2年後、ド・ラ・コンダミーヌがパリの王立科学アカデミーで、予防接種の利点に関する論文を読んだ;しかし、この方法がフランスに本格的に導入されたのは1755年のことである。チュルゴーは4歳の子供に接種し、21歳のシャステルーも接種を受けた。フランス公使の要請で、ロンドンの天然痘・予防接種病院に通っていたホスティ医師は、帰国後、予防接種について好意的な報告をし、これがフランスでの予防接種増進に絶大な効果をもたらした。1756年、オルレアン公爵一家をはじめ、非常に多くの身分の高い人々がさまざまな医師から予防接種を受け、1758年にはほとんどの大きな町で予防接種が行われるようになった。1760年、アンジェロ・ガッティがパリに定住した。彼の患者には膿疱がほとんど見られなかったため、彼がウイルスを薄めたと言われた。失敗の報告は一般的な警戒心を煽り、激しい論争を引き起こした。1763年、パリで天然痘が致命的に大流行したが、これは予防接種のせいだとされ、予防接種は禁止された。1768年、医学部と神学部は予防接種を許可すべきであると決定し、地方でも主要都市でも再び予防接種が行われるようになった。

この時代から300年経った今も論争は続いている。


ベルリンでは、メッケルが自分の子供たちに接種し、他の人たちにも実験を繰り返したところ、3人の死者が出て、そのうち2人は男爵の華族であったため、すぐに人々は当惑した。ミューゼル医師は6人の子供に接種したが、そのうち3人が死亡し、回復した3人はかなりの醜状を呈した。1774年には、ベイリーズ医師が17人に接種した。1人が死亡したが、不利な報告を黙らせるために、「発疹チフスによるもので、発疹は前兆にすぎない」とされた。 1775年、王室によって予防接種が奨励され、地方から医師がベルリンに集められ、ベイリース博士の指導を受けた。しかし、誰も手術に応じなかったため、陛下は孤児院の子供たちを利用せざるを得なかった。

ドイツでの死亡例と、人体実験の記録。


以下アメリカにて。

ザブディール・ボイルストン医師は、自分の子供と黒人の使用人2人に接種するよう勧められ、6ヵ月で244人に接種した。
この244例のうち、6例ではまったく効果がなく、6例では接種が原因で死亡したが、死亡の原因は他にあったとされたことは興味深い。

クルックシャンク氏によれば接種が原因で死亡したが、死亡の原因は他にあったとされた。
この説明が以下だ。

"また、予防接種を受けて死亡した人々については、ドクスウェル夫人は以前から感染していたと思われる。ホワイト氏は、天然痘よりもむしろ禁酒による気難しい妄想によって死んだ。スカボロー夫人とインディアンの少女は風邪による事故で死亡した。ウェルズ夫人とサールは老衰と病気で衰弱しており、この2人は以前から感染していた可能性が非常に高い。"

ボイルストン著『白人・黒人といったあらゆる人種、あらゆる年齢・体格に実施されたニューイングランドでの天然痘接種の歴史的記録』1726年

接種をしなくても同時期に死んだという主張。

ボイルストンの実験、特に彼の致命的な症例は、接種に反対する多くの人々を激昂させ、接種を擁護するパンフレットも、反対するパンフレットも数多く出版された。しかし、次のようなマニフェストがボイルストンの活動に厳しい歯止めをかけた。

"ボストンのタウンハウスで開催された公権力による会合;医師と外科医が予防接種に関して招集され、以下の結論に達した。
1721年7月21日にボストンの医師たちによって行われた、天然痘の予防接種に関する討議に関する決議。多くの事例から、天然痘の予防接種は、その直後に多くの人を死亡させ、また他の多くの人に災いをもたらし、最終的には致命的な結果をもたらした。
このような悪性の汚物を血の塊に注入する自然な傾向は、それを腐敗させ、腐乱させることであり、切開した場所や他の場所でその悪性を十分に排出しなければ、多くの危険な病気の基礎を築くことになる。
この手術は、感染を拡大させ、他の方法よりも長くその場所で継続させる傾向があること。
この手術の継続は、最も危険な結果の証明となり得る。
7月22日 ボストン町選民会議
昨年4月中旬(サルターツダ船団がこの地に運んできた)から今7月23日(1年で最も暑く、感染しやすい季節である)までに、ボストンで天然痘により死亡した者は、男、女、子供合わせて17人である;
罹患者のうち、回復した者もいれば、回復の見込みがある者もいる。"

ボイルストンは、天然痘の症例に関するこの報告に不賛成であることを表明した。

"ニューイングランドでは常に致命的であった天然痘を、この広告で行ったと思われるほど軽微で些細な表現にとどめたのは、われわれの選民たちにとって千差万別の不幸である"

このことからわかるように、予防接種推進派に転換させるためには、天然の天然痘の憂慮すべき事実を大衆の目に触れさせ続ける必要があった。

この頃から予防接種推進派は「感染症により怖がらせること」に注力しているようだ。



第1章 まとめ

  • 「天然痘は二度感染しない、もしくは二度目以降の感染では症状が軽い」と言われていた

  • そのため、世界各地で天然痘患者から取り出した膿やかさぶたを接種することにより、軽い天然痘に罹患するという習慣があった

  • 「天然痘を買う」という習慣があった

  • 接種による死亡例もあり、反対意見が出て、推進派と反対派で対立していた




第2章 グレートブリテンとアイルランドにおける人痘接種の歴史


この章ではクルックシャンク氏の住むイギリスについて、以下の4つの地域に分けて書かれている。

  • ウェールズ

  • スコットランド

  • アイルランド

  • イングランド


以下重要そうな部分を抜粋。

○ウェールズ

"一般に天然痘を買うと呼ばれているが;あなたの手紙を受け取ってから厳密に調べたところ、これは一般的な習慣であり、非常に長い間続いていることは疑いなく真実であることがわかり、高齢の人々から、彼らは16歳か17歳くらいのときに、この方法で天然痘を伝染させられたことがあり(#下記)、そのとき彼らはその伝染病を他の伝染病と区別する能力が非常に高かったと断言されました;そして膿疱に含まれる膿を他の人に分け与え、同じ効果をもたらしたという。ミルフォード港に近いこの国には、この習慣で他のどの村よりも有名な2つの大きな村がある、セント・イシュメルス村とマーローズ村だ。これらの村に多く住む古くからの住民は、健康的な環境にあり、昔からよく行われていたと言う;さらに驚くべきことに、セント・イシュメルスのウィリアム・アレンという90歳の老人が(半年ほど前に亡くなったが)、良識と誠実さのある人たちに、この習慣は昔から行われていたこと、自分の母親が、昔からよく行われていたことで、自分もその方法で天然痘にかかったと話していたことをよく覚えていると明言した。
(中略)
この国の何百人もの人々が、二度目に天然痘に罹ったという例を一つも挙げていない。"

ライト、Phil. Trans. 1722, p. 267

1722年に書かれた手紙に、90歳の老人の母親も人痘接種を行なったという記載あり。
ウェールズでは非常に古くからあった習慣。
二度目に天然痘に罹ったという例なし。


○スコットランド

セント・キルダ島では、天然痘は肘関節の皮膚に膿をこすりつけることで感染した。スコットランドでは、1726年にメイトランド氏が10人にこの手術を行うまで、外科医による接種は行われていなかった;しかし、そのうちの1例が致命的であったため、偏見が広まり、接種を復活させようと試みられてから20年が経過した。天然痘で非常に苦しんでいたダンフリーズでは、1733年に予防接種が導入されたが、北イギリスの他の地域では1753年まで採用されなかった。

外科医による接種で致命的な(おそらく死亡)例が出て慎重に。


○アイルランド

1723年にダブリンで初めて接種が行われた。この年とその後の3年間に25人が接種されたが、このうち3人が死亡したため、結果はあまり芳しいものではなかった。このうち2人が死亡したのは、5人の子供が接種された1家族であった。これらの症例はブライアン・ロビンソン博士によって発表されたもので、この時代の予防接種のごく一般的な結果をよく物語っているが、彼の報告の全てを提出することに興味がないわけではないだろう。

複数の死亡例。
この後ブライアン・ロビンソン博士に詳細な観察が続く。


○イングランド

イングランドの専門家は、メアリー・ウォートリー・モンターグ夫人(#)によって、人痘接種を採用するよう説得された。
ケネディは、東洋で行われていた予防接種に関する記述の中で、むしろイングランドへの導入に反対することを勧めていた。『王立協会紀要』に掲載されたティモーニとピラリニによる記述は、単にその方法を説明したに過ぎなかった。しかし1717年、オスマン・トルコ宮廷の大使を夫に持つメアリー・ウォートリー・モンターグ夫人が、アドリアノープルから友人のS.C.夫人(サラ・キスウェル嬢)に宛てた手紙の中で、ロンドンの医師を説得して予防接種を行う決意を表明した。

# 『メアリー・ウォートリー・モンターグ女史の手紙と著作』第1巻、184ページ。1887年

イングランドに最初に人痘接種を持ち込んだのはメアリー・モンターグ夫人だったようだ。

少しだけ別の本を引用して補足したい。
横書きなので漢数字が読みにくいため、アラビア数字に変換させていただく。

人痘接種療法を西洋に持ち込む際に華々しい活躍をしたのは、18世紀のイギリスで最も聡明な女性の一人であったメアリー・ワートレー・モンターグ女史であった。1689年、貴族の家庭に生まれ、若く黒髪の美人であった彼女は、同じく貴族で英国議会のホイッグ党員であったエドワード・ワートレー・モンターグと1711年に駆け落ちした。この情熱に溢れた若い二人はほどなくハノーバー王家ジョージ1世の王室に仕えることになった。しかし、ロンドンに来てわずか1年しか経たずにメアリー女史は天然痘を患ってしまった。彼女はすぐに治療したが、その美しかった姿は全身に残ったあばたとまつ毛の喪失から、見るも無惨になってしまった。
(中略)
1717年に彼らがトルコに到着してから、彼女はトルコの人痘接種療法に興味を持つようになった。

『免疫の反逆』

彼女自身の美貌が天然痘により失われてしまったことがきっかけのようだ。

彼女自身はトルコで見たことに十分心を奪われていたため、自分の6歳の息子には、コンスタンチノープルを発つ前にこの療法を受けさせることにした。彼女の個人医であるスコットランド人のチャールズ・メイトランドが、人痘接種療法のやり方を習得し、その土地の女性診療師を助手として行った。
(中略)
結局のところ処方は完全に成功し、若きモンターグ少年はその後長い間にわたって天然痘に抵抗性を獲得した。
(中略)
人痘接種は再び成功し、彼女の二人の子共たちは末永く天然痘の悪夢から解放されたのである。

『免疫の反逆』

まず息子に接種し、次に娘に接種した、どちらも成功した。


メイトランドは翌年5月、キース博士の息子に2回目の接種を行い、良好な結果を得た。このニュースは急速に広まり、あらゆる階層の人々の間で最大の関心を集めたからである。とはいえ、予防接種はほとんど進展しなかった。あまりの恐怖と疑惑の目で見られたため、ロンドンで3回目の試験が行われるまでに数ヵ月が経過した。実際、予防接種は危険なものと見なされたため、この実験を受け入れれば罪を完全に免除されると約束されたニューゲートの犯罪者たちに予防接種の機会が与えられるまで、再び試みが行われることはなかった。

慎重派が多かったようだ。
犯罪者での人体実験。


これらの事例についてメイトランドが述べた記述の中に、この慣習から生じる危険についての最初の示唆があり、これは100年後、この慣習を放棄するだけでなく、抑制的な法律を制定するための最も強力な論拠となった。最初の患者は、1721年10月2日に接種された、クエーカー教徒の娘で2歳のメアリー・バットであった。この子供には20個の膿疱しかなかったが、すぐに回復した。

"しかし、その後に起こったことは、それまで見たことも観察したこともない私にとっては、少なからず驚くべきことだった。簡単に言えば、こういうことだった:手術中、そして膿疱が出ている間、常に順番にこの子供を抱きしめたり撫でたりしていた、バット氏の家事使用人のうち6人が、まさかこの子が膿疱に感染しているとは思いもよらず(私もそうであったが)、一度に数種類の、しかも全く異なる種類の天然痘にかかったのである。"

# メイトランド 天然痘の接種に関する記述。1722年。

この災難にもかかわらず、この予防接種は採用された。

接種を受けた人からも感染する。


ウイリアム・スペンサーとバサースト卿の執事はともに大量の発疹に見舞われ、いずれも致命的な結末を迎えた。もう一人の患者、ミス・リグビーは接種から約8週間後に死亡したので、182回の接種で3人、ほぼ60人に1人が死亡したことになる。
この国でのメイトランドの予防接種が成功しなかったため、彼は厳しく批判され、トルコの老婦人たちに押し付けられたと一般に考えられていた。というのも、メイトランドはトルコで行われた治療について、非常に軽いものだと述べていたからである;さらに、彼は接種された天然痘は感染しないと自説を展開していた。

182回の接種で3人死亡。
それまでメイトランド医師は軽いものだと考えていたが、死亡例が出たため批判される。


その70年以上後のウッドヴィルの著書では、これらの失敗について次のように言及している。

"予防接種が常に天然痘の種類を作り出すことに成功するわけではないということは、当時も今も、憂うべき真実である、しかし、接種者たちは当初、それを認めたがらず、接種を受けた人の死亡を他の偶発的な原因によるものとしようとしたため、非難を浴びることになった。"

# ウッドヴィル、loc. Cit., 123ページ。

接種を行う者たちは認めたがらず、死亡を他の原因によるものとしようとした。


予防接種に対する強い反対運動が起こり、聖職者も医師も熱心な予防接種反対派となった。1722年には、予防接種を無神論、いんちき療法、貪欲の所産とする匿名のパンフレット(#1)が出版された。マッセイ牧師は説教を行い、その中で予防接種は危険で罪深い行為であると非難した;聖バーソロミュー病院の医師であるワグスタッフ博士(#2)は、予防接種の有効性についてさらなる証拠を得たいと表明し、文盲で無思慮な人々の間で少数の無知な女性が行っていた習慣が、世界で最も礼儀正しい国のひとつに突然採用されたことに、後世の人々は驚嘆するであろうと考えた。バット氏の家族の症例を批判して、彼は次のように述べている。

「私は、疑いようのない評判の人物から十分な情報を得ている、ハートフォードの町は、この習慣が危険であることを示す嘆かわしい証拠である。この町では、この習慣によって天然痘が蔓延し、住民を大混乱に陥れただけでなく、その地の商業にも支障をきたした。このように、接種者は、その行為を公言したり、その実験を望んでいるわけでもない、遠く離れた場所や人に天然痘を伝染させることができるのである: そして、もし移植された痘瘡が、この方法によって周囲のすべての人に確実に死を伝えるほど毒性が強くなる可能性があるとすれば、彼らは、我々の間で知られているような激しい疫病を移植するかもしれない。このような人為的な人口削減を防ぐために、立法府がどこまで介入するのが適切と考えるかは、私の権限では判断できない。」

#1 新型予防接種の考察と、その危険な実験の規制を求める国会への謙虚な請願。
#2 ワグスタッフ 『フレンド博士への手紙』1722年

人痘接種に対する強い反対運動が起こる。
接種により感染が広がるため、毒性が強くなれば人口削減に繋がり得るとの記述。


この反対意見に反論したのが、統計学によってこの問題を検証したジュリン博士(#)の手紙であった。彼は、生まれてくる子供のうち14人に1人が天然痘で死ぬが、被験者を選んで接種した人のうち91人に1人しか死なないという結論に達した。ジュリンは予防接種を支持し、その結果、予防接種は着実に進歩していった。

# ジュリン ケイツワース博士への手紙。

統計学を用いて接種を推進。


死亡例があるにもかかわらず、接種の利点が主張された。通常の方法で天然痘に罹患した人のうち、約6人に1人が死亡するのに対し、接種反対派が主張する接種による死亡例は50人に1人以下であることが計算されていたからである。

自然感染だと約6人に1人死亡、接種による死亡例は50人に1人以下。

また『免疫の反逆』より補足する。

1721年から1727年の間に897人が人痘接種を受けたが、処置過程の併発症によって死亡したのは、たった17人であった(53人に1人の割合である)。これは、自然に発生する天然痘の死亡率(およそ6例に1例は死亡する)に比べると非常に小さい値である。当時の英国で様々な原因で死亡した全21万8000名のうち実に9%は天然痘によるものであった。であるから、公衆の病気予防という見地からは、人痘接種は非常に意味のある行為であった。

『免疫の反逆』

接種による死亡例は約53人に1人。
死因の9%が天然痘。


1731年、ジュリン博士とシェウツァー博士の統計の誤りを暴き、天然痘に対する予防接種の優位性は虚構であると主張するパンフレットが出版された。この著者は、予防接種によって天然痘の感染が広範囲に広がり、天然痘による死亡率がかなり増加したと主張した;従って、予防接種を受けた人が助かった命は、感染拡大によって失われた命には及ばないというのである。このパンフレットに対する直接的な回答は得られなかったが、接種に賛成する論文も反対する論文も、折に触れて発行され続けた。ウォーレン博士はこれを「トルコから輸入された野蛮で危険な発明」とみなした。

接種推進派が統計詐欺を行ったという主張と、予防接種によって天然痘の感染が広範囲に広がったという主張。


1746年には、予防接種病院が設立され、予防接種の技術はさらに奨励された。しかし、世間はまだこの病気に対して強い偏見を持っており、病院を出た患者はしばしば路上で罵倒され、侮辱された、そのため、夜の暗闇になるまで、人目を気にすることなく病院を出ることができなかった。

# ウッドヴィル, loc. 238ページ。

天然痘患者か接種患者かの判断が難しいが、差別を受けた。


1754年の初めには、接種を推奨する2つの著作が出版された。1つはバージェス氏によるもので、もう1つはカークパトリック博士によるものであった。

同年、まだ天然痘にかかっていない3人の王室の子供たちに予防接種を行うことが決定された。その間、皇太子は偶然天然痘にかかり、エドワード皇太子とオーガスタ王女は皇太子から採取した天然痘の膿を接種した。この事実と、特に医師会の次の宣言が、この習慣をさらに定着させることになった。

"英国における予防接種の成功に関する虚偽の報告が外国で発表されているとの報告を受け、当学院は次のように意見を表明する。彼らの気持ちを次のように表明するのが適切だと思う。この慣習が開始された当初に反対論が唱えられたが、経験によって反論されたこと、この慣習が現在では英国人によってより高く評価され、以前にも増して広範囲で実践されていること、そして大学側はこの慣習が人類にとって非常に有益であると考えていること。"

医師会は接種を強く推進。


この後、サットン式接種法という安全性が高いと言われる方法が出てくるが、引用すると長くなるし、接種方法自体が重要だとは思わないので割愛。
サットン式は人気が出て、かなり儲かったような記載がある。


ディムスデール医師(#)は、サットン式システムを最初に実用化した一人である。彼は自分の診療にこの方法を採用し、接種に関する論文に新しい方法の本質的な部分をすべて盛り込んだ。ディムスデールはその接種で非常に有名になり、ロシア皇后が接種を希望した際には、彼が接種を担当することになった。サンクトペテルブルクで書かれ出版された彼の接種に関する小冊子は、サットン式接種法とその結果について論じる際に詳しく参照されるであろう。
ディムスデールの研究の結果、予防接種は一時期、以前よりも非常に盛んに行われるようになった。1798年には牛痘の予防接種がこれに匹敵するようになり、1840年にはついに議会法によって禁止された。

# ディムスデール 天然痘の大統領式接種法。1779年

ディムスデールはサットン式を取り入れて有名になり、ロシア皇后に招かれて接種を行った。
接種は盛んになったが、1798年に牛痘の予防接種(Vaccination)が登場、1840年に人痘接種は禁止される。




第2章 まとめ

  • 接種による死亡例は多数、認めたがらない医師も多い

  • 接種を受けた人からも感染が広がった

  • 患者に対する差別

  • 自然感染では約6人に1人が死亡、接種により約53人に1人が死亡、天然痘が死因の9%を占めた

  • 反対派:推進派の統計詐欺・感染拡大さらには人口削減に繋がると主張

  • 推進派:安全性の高い方法の開発と統計を用いた説明、医師会による断行



終わりに


あまりにも拙い翻訳ではあるが、ここまで読んでいただけた方には、クルックシャンク氏の仕事が本物であることが伝わっていると信じたい。

英国紳士であるクルックシャンク氏に倣って、個人の感想は極力排除して、なるべく偏りのないようコメント&抜き出しを行なった。

クルックシャンク氏の偉業を穢したくないし、より多くの方に知ってもらいたいからだ。

だいぶ長くなったので、第3章以降は次回で。


最後に、より詳細を知りたい方に向けて
『ワクチン接種の歴史と病理学1巻』はこちらから購入可能である。


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