ナヴォイ劇場

新年あけて、神社に行き日本人としての誇りとは?を考えるときに思い出すエピソードがこの劇場のことです。

ウズベキスタンにあるナヴォイ劇場ってご存じですか?何年か前にテレビで知りました。そのことについて書きたいと思います。

ウズベキスタンは、現在は独立していますが、第二次世界大戦のときはソ連の属国でした。

昭和20年8月、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍は満州に侵攻して、日本軍のみならず、在満州の民間人にも甚大な被害を与えました。
そして、60万を超える日本人を、シベリアを始めとするソ連領内に強制連行しました。当然、これは国際法違反であり、戦争犯罪です。

ウズベキスタンに拉致連行された日本人は約2万5000人だとされ、劣悪な環境下のために、不幸にも、その内の900名近くが、栄養失調、病気、事故などで亡くなられました。

第二次世界大戦前にナヴォイ劇場の建設が始まり、大戦中に建設中断となり、土台と壁の一部、柱などしか出来てませんでした。

戦後、ソ連はこの劇場を1947年11月までに完成させることを決定。
(レーニンによるロシア革命が1917年だから、30周年ということ。どうでもいいけど)
日本人捕虜の中から、建築作業に適した人材が選ばれて、ウズベキスタンに移送され、その中心となったのが、永田行夫隊長が統率する第十野戦航空修理廠の工兵を含む457名の日本人。

日本人の勤勉な仕事ぶりは、地元で評判となり、地域住民から魚の干物やウォッカなどの差し入れがあったらしい。
ウズベキスタンの人びとの優しさに感謝した日本人は、建築現場で出る廃棄用の木片などを加工しておもちゃを作り、地元の子供たちに配ったという。

ナヴォイ劇場は、日本人の丁寧な仕事とウズベキスタン人やロシア人労働者の努力の甲斐もあって、1947年に無事、完成した。(3年かかるといわれたところ2年で完成!!)

1966年4月26日、タシュケント(ウズベキスタンの首都でナヴォイ劇場があった場所)は直下型マグニチュード8の大地震に襲われた。
激しい地震にみまわれた同市は甚大な被害を受けます。
数えきれない程の建物が崩壊して、町はほぼ壊滅し、約10万人の人びとが戸外に放り出されました。
ところが、ナヴォイ劇場は全くの無傷で、あたり一面瓦礫の山の中、凛と輝くように存在感を放っていたという。
行き場を無くしたタシュケントの人びとは、このナヴォイ劇場を避難場所として活用した。

この光景を見た現地の人々は、劇場建設に関わった日本人の丹精込めた仕事ぶりを思い出し、畏敬の念を覚えたということです。
ウズベキスタンでは、いまでも多くの母親が子供たちに「日本人のように勤勉でよく働く人間になりなさい」と言い聞かせているそうです。

この劇場の裏手には記念プレートがあり、かつては、ウズベク語・ロシア語・英語で「日本人捕虜が建てた」との記載があった。
しかし、ソ連からの独立後、初代カリモフ大統領により書き換えられました。
「決して日本人捕虜という表記は使うな」と指示したそうです。
日本とウズベキスタンは一度も戦争をしたことがなく、
また、永遠に遺していかなければならないプレートであることから、
「捕虜」ではなく「日本国民」と刻まれたのです。

その新プレートには、「ウズベク語⇒日本語⇒英語⇒ロシア語」の順で以下のような文言が刻まれてます。

「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」
動画では、もっとわかりやすく説明してくれています。

このエピソードは、日本のものづくりの伝統精神だけでなく、強制労働という劣悪な条件下でも、どんな仕事も手抜きをせず完成度の高いものを作り上げる日本人の気質を感じます。
これこそ日本の精神、大和魂ではないでしょうか。

敗戦国となった日本は、徹底的に悪のレッテルを張られました。しかし、あの時の日本人はみんな、日本という国を背負って戦い、そして、強制連行されても、日本人としての誇りを持ち、こんな素晴らしい姿を世界に示してくれました。
現在の日本では、足の引っ張り合い、私利私欲にまみれている人たち、政治家が多いです。でもそれは政治家たちをそうさせている国民全員の責任でもあります。

ナヴォイ劇場のエピソードにみられる、誠を尽くす 愚直の姿勢こそを、学び直し、日本という国を未来にどうしたいか、子供たちにどう残すかを考えるべきだと思います。


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