嘘ついていることを知りながら。
昨日は寝落ちして気づいたら夜の12時でした。
きっと寝ぼけていたから日記も書けないと思い、代わりに今日の朝に書くことにしました。
毎週書いているかもしれないトピックである子供たちから「お金ちょうだい」の一言への反応で毎回違う感情になり、最終的行動が変化する自分の存在に気づきました。
基本的にお金をあげる行為や、ものをあげる行為は極力避ける様にしています。キリがなくなるし、あげる人とあげない人が出た時に生じる争いを回避するためです。
それでも毎日の様に言われる一言に自分の方が飽きを感じてきました。正直めんどくさいと思ってきました。子どもはその一言に深い思い入れはなく、毎日のルーティーンのように僕を見たらそれを言うことにしているのでしょうw。
これが今までに感じていた気持ちと、自分が自分を解釈できる範囲内で起きていたことです。
しかし、昨日なぜ僕がお金や、ものをあげることを避けるのかもっと簡単な答えを見つけました。「シンプルにあげたいと思わないからです」感情によって行動した場合、最終的に完全に主観的な考え方で行動することになります。
部屋にいると、下から僕を呼ぶ大きな声が聞こえてきます。
最初は無視していたけど5分ぐら続いたので部屋から出て話を聞くことにしました。
彼女たちは頭が痛いから薬を買うお金をくださいというのです。
頭が痛いのは昨日庭で走り回っている時に転んだことが原因度とか、病気ではないことに安心しながら、話を進めていきます。とりあえず水飲んで、下で寝転んでやすみなさいと伝えました。そうすると彼女たちは小声で作戦会議を始めます。次は足を捻ってとても痛いと言ってきました。
本当の怪我なら大変なので下に行き、足の状態を見ることに、特に内出血もなければ、腫れている箇所も見当たりません。
僕は彼女たちが嘘をついてることを最初から知っていました。
しかし、それでも痛いというので、薬局に一緒に行こうと伝えて歩き出すと、彼女たちの良心が働き出したのか、「もう具合が良くなった」と言って何処かに走っていきました。
嘘と知っていながら話を聞き続けた結果彼女たちは嘘を重ねていきました。
僕が薬局に行こうと言った瞬間に彼女たちの良心が急に働き出しました。
悪いと思わないのも、自分の良心が働くのも、感情が動くのも、自分発信ではなく、他人や自分を取り囲んでいる環境が要因なんだと知りました。
この事例でそんなこと思っているのは僕だけでしょう。
明日も何事もなかったかのように仲良く話す日常が繰り返されるのです。
他人が何を考えているのかなんて理解できないし、コントロールできないと思ってきました。でも昨日僕がしたことは、それに近いことなのかもしれません。僕が言ったこと、僕の行動で彼女たちの言動が明らかに変わったのです。
僕は彼女たちの話を聞きながら同時に彼女たちが何を考えているのかを想像しました。その結果薬局に行くという行動を取りました。
僕の中でお金をあげる行為を回避する、最善と思う手段を取ったのです。
この事例で僕が学んだことは他者への想像力を働かせる行為は、客観的視点と主観的視点の二つが噛み合っている行為ということです。
別に彼女たちが嘘をついたことに怒りを感じることは一切ありませんでした。その嘘が僕の行動を決めたわけでもありません。嘘をつこうが、つかなかろうが、最終的行動は最初から決まっていました。