学校のLGBT配慮
ここ5年くらいの間に、訳あって5校以上の学校に配属した。普通の教員は、5年くらいは同じ学校に所属するものなのだが、私は違う。因みに先に弁明しておくが、やらかして別の学校に飛ばされたというわけではない。さて、色んな学校に所属し、各校100人以上もの児童生徒と関わってきた私だが、面と向かってLGBT配慮した生徒は2人だけである。だが、配慮を求められなかっただけで、所謂マイノリティ(少数派)の性自認を持つ子は10人以上はいたと思う。
最近は配慮することが多くて、難しい時代だなと思うが、私が学生の頃からそういった子達は沢山いたと思う。私も実はその内の1人だ。
前提として、私は理系出身なので、人間を生物学的な見解で区別している。だが、それと同時に、精神的な面でも性別を区別することは可能だとも思っている。ここで私の意見として、最終的に公共の場で優先されるのは、生物学的な性認識だと判断している、ということを記載しておく。勘違いしないで欲しいのは、世界中でそうなるべきだ!と言いたいのではなく、飽くまでも私は、そうやって自分の行動と思考を決めているというだけで、誰にも強制はしないということだ。簡単に言えば、私はこういう考えです、と自己紹介しているだけに過ぎない。だから、私と同じ意見じゃない人間はおかしい、とも思わないし、そうしてない人間は気持ち悪い、と思っている訳でもない。私のスタンスは、私は私、あなたはあなた、なので、別に私の意見に納得して欲しい訳でもない。単に知っておいて欲しいだけである。そうでないと、この話がただの批判や強い主張と勘違いされてしまうからである。
この前提文がないと、そもそも話が通用しない人が最近多いなぁと思う。私は教員である以上、政治や、こういったデリケートな事象については、基本触れたくない。何をきっかけに、教員のくせに!と文句を言われるか分かったもんじゃない。だからこれは、保身の為の文なのである。
さて、LGBT配慮を実際に求めてくる生徒は、割と自他分離ができており、自分はこういうスタンスだから意見を押し付けないで、自分もあなたに同じことは強要しないから、という子が多い様に感じている。だが、流石小中高くらいの児童生徒では、身の危険について考える視点が足りておらず、言いたいことは分かるけれど、それがどれだけ自身の危険に直結してるか分かってる?と思わざるを得ない発言も多いのは事実。具体的な例を挙げるならば、御手洗や更衣室の問題である。生物学上、体は女性。だけれど、気持ちは男性。勿論、生徒の気持ちは最大限優先してあげたい。だがここで、他の男子と同じ場所を使いたいと言われても、易々とOKは出せないのは、大人なら分かってもらえるだろうか?何度も言うが、体はどう足掻いても女性。生々しいことを敢えて書くが、妊娠できる体である以上、最悪の場合を想定した上で、それはできない、ごめんと言うしかないのだ。最終的には、多目的トイレや保健室という選択肢にて落ち着いたが、気持ちよりも優先されるべきことに、是非気付いて欲しいというのが、大人としての正直な意見である。
さて、先程私も性的マイノリティの内の1人だということを記載したわけだが、これが本当にそうだったのか、ただの思春期だったのかは今でも不明である。私は生物学上女性だ。しかし一時、主語を「俺」にしている時期があった。これもまた、思春期と言うか、中二病と言うべきか分からないものだが、最終的に女性を好きになるまでに至ったわけだ。しかし現在は、どちらかと言うと女性らしい服装が好きであり、所謂地雷系やゴスロリといったジャンルにすら惹かれている。勿論好きなのは男性であり、中学生頃の自分と真逆と言っても過言ではない。スカートなんて気持ち悪い、ピンクはきもいと言っていた自分が、今ではミニスカートに挑戦し、ド派手なショッキングピンクを着ることもあるだなんて、過去の自分は想像もしなかっただろうに。こんな経験があるからか、自分が配慮した生徒も、大きくなったら案外コロッと気持ちが変わったりするんじゃないかと思ったりもする。勿論、決めつけは良くないが。
今の時代、人の意見を否定しない、あなたはあなた、私は私のスタンスが当然となっている。ありとあらゆる配慮が必要であり、それはLGBTに限ったことではない。LGBTには沢山のジェンダーのカテゴライズがあるが、カテゴライズされることにより、容易に型に嵌ってしまいやすい。前回のnoteでも書いたが、カテゴライズとは案外怖いもので、根拠もない誰にでも当てはまりそうなことを見て、自分はこれだと安直に決めつけ、一度嵌った型からはなかなか出てこれなくなる。後々に、自分はやっぱりこれじゃなかったのか?と気付いたとしても、無意識の内に、自分を納得させる為の、ありもしない根拠を持ち出して、自分を正当化しようと軌道修正してしまうことがある。自分が何者か分からないのは怖いと思うのは当然だ。だが、自分自身に対して、間違った認識を持つのも、案外怖いことなのだと思う。
あなたは自分の性自認について不安や困り感を抱いているだろうか。これは何も子どもだけに限った話ではない。私だって、大人になってからも長い年月、自分について分からないことが多くて悩んだ。人はきっと、一生悩み続ける生き物なのだと思う。だからどうか、どうして自分だけは違うんだろう、自分は変なんだろうか、病気なんだろうかと、自分を追い詰めるようなことは考えないで欲しい。そもそも、ジェンダーなんて概念は、人間が勝手に決めてきたものだ。そこに正しいなんてものはないはずである。だが、社会の動きというものがあり、それに逆行すると、それはそれで社会から爪弾きにされてしまうかもしれない。自分の感情と上手く付き合っていくのは難しいことだが、あなたはこの世界で、自分独りだけで生きているわけではないのだ。だから、自分と他人との境界線をしっかり引きながら、主張しすぎず、引っ掻き回されすぎず、自分の足で立っていなくてはならない。
LGBTの悩みを抱える児童生徒は、やがて集団から外れ、不登校になってしまうケースが多い。どうしてそうなるのかは、今の自分に説明することは難しいが、自分は社会に相応しくない、自分だけが変で一緒にいるのが苦しいと、独りで抱え込んだり、ネガティヴな気持ちを増幅させないで、誰かに頼って欲しいと思う。正直、学校の先生と呼ばれる人間の一部は、そんなのはワガママだろう、発達障害だと切り捨てるような、心のないように見える人もいる。だが、どうかそんな言葉を浴びせられたとしても、傷付かないで欲しい。どうしてLGBTが甘えと思う人間がいるのか、そんなのは時代遅れだ!と思うかもしれないが、生まれた頃からずっと、周りの人間全てが、人間は男女で分けるものだと数十年単位で言われ続けてきた人が、たった数日、数年で、その考えを捨てるのは難しいだろう。今まで自分の中で常識とされていたものが、違うと否定されて、素直に受け入れられる程、人間は臨機応変ではない。地球は平だ、円盤状だ、世界の終わりは滝だと思っていたら、球体でした、という理社的な話にも似ていると思う。これには正解があり、結局宇宙から地球を見れば、どちらが正しいか分かってしまうが、厄介なことにジェンダーの形に正解はない。だから、皆、傷付いたり、悩んだりするのだろう。
相手の意見を否定するというのは、衝突を生むし良くない。だが、そうやってコミュニケーションをとろうとしてくる人も一定数いる。だから、あなたはあなたの意志を大切にして欲しい。周りに言われることなんて関係ない。だけど、あなたもその意見を他人に押し付けてはいけないと、私は思う。自分の意見を押し通すことと、相手の意見を否定することは同義である。相手が否定してこようが批判してこようが、自分の心と体を大切にして欲しい。
私は、LGBT配慮を必要とする児童生徒と最後まで関わることができなかった。もっと、良い言葉をかけてあげられたかもしれないし、苦しみに寄り添えただろう。もっと建設的な解決策や、役に立つ考え方を与えられたはずだと、後悔にも似た気持ちが、私の心の中に、未だ蟠りとして残っている。
全ての児童生徒達が、そういったことで苦しむ姿は見たくない。どうか、適切な支援を。教員はもっと思いやりと寄り添いの言葉を。児童生徒である君達は、独りで抱え込まず、誰かに相談するようにして欲しいと思う。