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フレデリック(レオ・レオニ)の絵本 世界情勢と重ね、二宮尊徳の偉大さを改めて感じた話
愛知県のリサイクルカンパニー
豊アルケミー株式会社 代表の桐山です。
子育て・教育・地域に携わって生活している企業経営者です。
絵本を読みました。
「フレデリック」
作: レオ・レオニ
訳: 谷川 俊太郎
出版社: 好学社
絵本ナビのサイトから翻訳を引用します。
小さな野ねずみたちが、とうもろこしや木の実、小麦やわらをせっせと集めて運んでいる。みんな昼も夜もはたらいている。
彼らの住んでいる家は牧場に沿った石垣の中。豊かだったその場所は、お百姓さんが引っ越してしまったので、納屋はかたむき、サイロはからっぽ。おまけに冬が近い。食べ物を蓄えなくてはならないのです。
ところが、フレデリックだけは別。
ひとりでじっとしています。
「フレデリック、どうして きみは はたらかないの?」
じっとして陽に当たり、牧場を見つめ、ほとんど半分寝ているみたい。だけど、彼のこたえはこう。
「こう見えたって、はたらいてるよ。」
寒くて暗い冬のために光をあつめ、色をあつめ、言葉をあつめているのだと言う。一体どういうことなのでしょう。
やがて冬がやってきて、楽しく過ごしていたのもつかの間、食べるものが尽き、からだは凍え、おしゃべりをする気にもならなくなった。その時、立ち上がったのはフレデリック。彼はみんなの前に立ち、口をひらき、話しだしたのは……。
レオ・レオ二の描く絵本の世界の住人たち、その多くは小さく愛らしいものたち。この名作『フレデリック』もそう。愛嬌だって抜群です。だけど立ち向かっている問題はいつも骨太、なかなか考えさせられるのです。
仲間たちで生きていこうとする時、目の前に立ちはだかった問題をどう解決していくのか。答えは一つのようで、一つではなく。思いもよらない方法があることを否定することなく。そこにこそ、芸術の可能性が秘められているのかもしれなくて……。
もちろん、そんな堅苦しいことを言わなくても。
「これは まほうかな?」
日本では谷川俊太郎さんの翻訳により、子どもたちが存分にその素晴らしい世界を味わえるようになっています。
(磯崎園子 絵本ナビ編集長)
桐山的あらすじ
5匹の野ねずみがいた。
これまではお百姓の家の近くに住んでいたので、食べるものにこまらなかった。
あるときお百姓が引っ越しをしてしまったので、冬に向けて食糧を確保に奔走しなければならない。
しかしフレデリックだけは実労働せずに、来るべき冬のために光や色、言葉を集めているという。
冬が来て、フレデリック以外の4匹が集めた食糧のおかげで何とか命をつないでいる。いよいよ食糧が底をつきかけて来たとき、フレデリックが集めた光や色、言葉を歌い上げる。
4匹は「詩人だね」とフレデリックに言い、フレデリックは赤くなって照れる。(おしまい)
話はここで終わります。
その後、野ねずみたちがどうなったのかは描かれていませんが、、
最悪の事態になったと想像されます。
私は思います。
「人は食えねば死ぬ」
と。
アメリカでは自国民の生活を最優先と掲げた共和党トランプ氏が大統領に選ばれ、環境や多様性を掲げた民主党が敗北しました。
これに伴い、企業も方向転換を表明しています。
EUでも同じく、右派的な勢力に揺り戻しています。
環境・多様性。
実に理想的で、耳障りのよい概念です。
しかし実態は理想に過ぎず、概念に過ぎず、多くの人々の生存を脅かしていました。
例えば、LGBTQという概念を上段に持ってくることで、
「性別での区別はおかしい」
と概念が行き過ぎて、マジョリティである本来の女性の安全が脅かされる事態も起こっています。
マイノリティを受け入れることは大切ですが、元来違いがあるものを同質とみなすことで、守られるべきものが守られない。
それによって、
「みんな等しく不幸になる」
そんな現実に気付いたのだと思います。
「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」
かの二宮尊徳が残した言葉とされています。
寝言で生きてはいけません。
人間には芸術もエンタメも必要です。
しかし生きていけなければ、それもかないません。
このフレデリックという絵本の批判をしたいわけではありません。
芸術は大切だよ、なのか
私と同じように、皮肉的に捉えているのか。
書かれたときの時代背景や作者の本当の意図も分かりません。
死ぬ間際にマッチを擦って、明かりのなかに幸せの幻影を見ていたマッチ売りの少女と重なるな~
というのが私の率直な感想です。
それでは、今日も一日良い日でありますように!