〝子供たちに勇気を与える選手になりたい〟【#77 小池文哉 選手】
こんにちは!新潟アルビレックスBB note編集部です。ここでは、普段なかなか見えない選手の一面を、インタビューを通して皆さまにお届けしたいと思います!
【2023-24シーズン 選手インタビュー】
お一人目は『ブンちゃん』の愛称で親しまれ、チームのムードメーカー的存在の小池文哉選手。彼の底知れぬ明るさの土台には、数々の経験を乗り越えてきた過去が存在しました。彼がこれまで何を考え、どう生きて来たのか。そして今、何を想いコートに向かうのか、お話をうかがいました。
ぜひ、最後までご覧ください。
ー早速ですが、バスケットを始めたきっかけを教えてください。
7歳上に兄と5歳上に姉がいて、『2人がやっていたから』っていうのが(きっかけとしては)大きいですね。4歳くらいの時から(兄・姉の)ミニバスの練習について行って、中に入って一緒にやっていたりしました。本格的にミニバスを始めたのは小学1年生〜小学2年生くらいです。
ー小学生の頃から、プロバスケットボール選手を目指していたんですか?
そうですね。卒業文集に書いたりしていました。小学4年生くらいから少しずつ試合に出るようになり、6年生になってからはチームのキャプテンとしてプレーしていました。新潟市選抜にも選んでもらえて、この頃からは将来はプロバスケットボール選手になるぞ!という気持ちが強くなっていました。
ーその後、中学・高校へと進むわけですが、進路はどのように選択されましたか?
中学は、家から近い学校です。にいちゃんも、ねぇちゃんも同じ中学でした。にいちゃんはそこで全中(全国中学校バスケットボール大会)3位になって、ねぇちゃんも中3の時に全中3位になりました。自分は中2のときに全中3位でした!
高校は、結構悩みましたね。オファーをいただいた高校もあったし、他にもいくつか自分の中で行きたいなー、と思う候補がありました。最終的に開志国際高等学校にしたんですけど。
ー開志国際高等学校を選ばれた決め手はなんだったんでしょうか?
カンです!カンていうか、なんか、ココだ!!って感じで。直感ですね!
結果としては自分たちの代で全国優勝できて、あとは色々な経験ができたので選んで良かったなと思っています。
ーいつからPG(ポイントガード)をやっているんですか?
中学の時はシューターだったんですよ。開志にもシューターとして入ったんですけど、一時期めっちゃシュート入らない時期があって。もう、全っ然ダメで。当時、チームのガードをやってたのが、今秋田にいる小栗(小栗瑛哉選手/秋田ノーザンハピネッツ所属)なんですけど、ちょうどその時、小栗も全然ダメで。俺も小栗もシュート入らないしガードができない!みたいな。とにかく上手くいかなかったんですけど、ある時、富樫先生(開志国際高等学校バスケ部総監督)が(自分たちの)ポジションを交換したんです。そうしたらそれがめっちゃ上手く行き過ぎて‼︎それからはずっとPGって感じです。
ー大学進学時にも、やはりプロになりたい!という気持ちはブレなかったんですか?
いや、その頃はプロになりたいとは思ってなかったですね。高3〜大学入学してしばらくは、実業団とかを考えていました。プロって厳しい世界だし、安定はしないじゃないですか。それを考えた時に、やっぱりリスク抱えながらプロでやっていくよりも、働きながらバスケを続けていく方が良いかな…って思っていました。
ーその当時ご両親は、進路についてどうお考えだったんでしょうか?
お母さんには、理学療法士になれって言われてましたね。医福(新潟医療福祉大学)に行け!って。地元だし。それに対しては自分めちゃくちゃ反抗してました。『俺の頭で理学療法士なんてなれるわけないだろー!』って。(笑) お父さんは、いつも好きなことをやりなさいっていう感じでした。
ー結果的に九州の大学(日本経済大学)を選択されましたが、こっちの大学(東日本)は考えなかったんですか?
こっちの大学も考えてはいたんですけど、富樫先生から『関東の大学だと3、4年になっても(試合に)出れる保証は無い。上手い後輩が入って来てポジションが被ったら出れない可能性だってある。だったら、地方の大学で1年から試合に出て経験を積んだ方が良いと思う』って言われて『確かに!‼︎』って思って福岡行くぞって決めました。自分、信じやすいんで。(笑)
ー大学に入学されて間もなく、新型コロナウイルスが流行し始め、練習や試合にも影響があったかと思いますが、いかがでしたか?
大学1年(2019年)の1月から佐賀(佐賀バルーナーズ)に入って、1回シーズン終えて、その年の3月頃からコロナが流行り出して。契約して、さあいよいよ再来週が試合!っていうタイミングだったのに、それ(試合)が無くなったんですよ。で、契約したけど試合が無いし、練習生みたいな感じでした。大学も閉鎖して活動出来ないし、4月に一度実家に帰ったんですよね。でも、佐賀から『練習するから来て!』って言われて、すぐ福岡に行って、2週間隔離生活したあと、チーム(佐賀)に合流して練習を再開しました。試合は少なくなったけど、その間とにかく練習はずっと続けていました。
ー新潟へ来るきっかけになったのはどういったタイミングだったんでしょうか?
去年(2022年)の6月に西日本大会で名古屋学院大学との3位決定戦があったんです。その試合がきっかけで、名古屋学院大学のコーチとして試合を観ていたGMの東さん(新潟アルビレックスBB強化部長)から話しをもらうようになりました。もともと、いつか地元新潟でプレーしたい!という気持ちがあったので、オファーがあれば行きたいと思っていました。何回かお話しをいただく中で、気持ちが固まりました。
ー新潟へ来てもうすぐ一年が経ちますが、チームへの印象はいかがですか?
自分が来た時、佐賀で一緒だった澁田選手(京都ハンナリーズ所属)や、2個上で元帝京長岡高校の遠藤選手が居たので、溶け込みやすかったですね。自分、人見知りなんですけど!(笑)
今のチームの雰囲気はすごく良いです。たまに、HC(ケイシー・オーウェンズHC)の言ってるジョークがよくわからない時があります。トミーさん(冨岡大地選手)の通訳を聞いても、よくわかりません!(笑)
ー特指(特別指定選手)で3シーズンを経験し、今シーズンがプロとして初のシーズンとなりますね!心境の変化はありますか?
これまで試合が無くなったり、出れなかったりと悔しい想いを沢山してきたので、今シーズンはぶつけるシーズンだと思っています。ミスを恐れず積極的にプレーしたいと思っています。
ーご自身の人生を振り返って、ターニングポイントだったなと感じる瞬間はありますか?
プロに行くか、行かないかを決めた時ですね。大学1年の時、佐賀の練習に参加したことがターニングポイントでした。その当時、プロへの道はもうほとんど考えていなかったんですが、佐賀の練習に参加した時『やっぱりここ(プロ)でプレーしたい』って感じました。その時色々と面倒見てくれたのが、今は愛媛のHCをされている保田さん(保田尭之GM兼HC/愛媛オレンジバイキングス)ていう人で、当時は佐賀のアシスタントコーチをしていたんですけど。あのとき佐賀の練習に参加していなかったら、今こうしてプロになっていなかったかも知れません。
あとは中学の時の堀先生(堀里也先生)ですね。堀先生はバスケットIQがとにかく高いんです!!能代(能代工業高等学校)だった方で。堀先生からシュート技術を学ばせてもらって、育ててもらいました。中学の時にスリーを武器にできたのも堀先生のおかげです。
ープロバスケットボール選手になる夢を叶えた小池文哉選手の、ここからの夢を教えて下さい。
チームに必要とされる存在になりたいです。
そのチームにとって必要不可欠な、ひとつのピースになれるように。
あとは、試合を見てくれている子供たちに勇気を与える選手になりたいです。小さい頃、bjリーグを観に行った時に『身長が小さい選手でも(バスケが)できる!』というのを自分の目で観て、勇気をもらいました。自分もそのような選手になりたいです。
ー今シーズンの目標を教えてください。
選手として残っていくにはやっぱり結果を出していかないといけないので、試合に出続けることはもちろんなんですけど、スタッツには残らない泥臭いプレーも徹底してやっていきたいと思っています。
あ、あとベンチ!!ベンチ盛り上げていきます!!!
負けてても、勝ってても、めっちゃ盛り上げます!!!
ベンチの盛り上げ方は、てんしょーさんに学びました!(笑)
(杉本天昇選手/ファイティングイーグルス名古屋所属)
ーありがとうございました。開幕戦、楽しみにしています!!
【note編集部コメント】
シュートが全然入らなかった経験も、コロナで試合に出れなかった経験も、まるで全てが夢を叶える〝小池文哉物語〟の伏線だったかのように感じられるお話しでした。これからの彼の成長がとても楽しみです。
今シーズンはコートの〝小池〟も、ベンチの〝小池〟からも目が離せません!!