「サイゴンの昼下がり」Alao Yokogi 1994年10月 レタントン通り。
ANA 広告 2001年
オリジナルプリントを販売しています。オーバーマット額込み。プリントを販売しています。オーバーマット額込み。送料、税込み。 ¥120,000
https://alaoy351a.myportfolio.com/1658bc07ef3669
1994年10月 はじめて訪れたベトナム
その年、ベトナムはアメリカからの制裁が解除された。
それまでベトナムは今でいえば北朝鮮のように、
世界から孤立した国だった。
僕の世代にとってベトナムは、「ベトナム反戦」と何度も叫び、
それでいてベトナムの何も知らない傍観者だった。
枯葉剤、べとちゃんドクちゃん、北爆、ゲリラ、ボートピープル。
アメリカに勝ったといえども、その後、ポルポトのカンボジアに侵攻、
平和を勝ち取ったはずのシンパシーは、一転、世界から批判され孤立した。ベトナムを助けたのはソ連だけだった。
ある日、人気テレビ番組、
「兼高かおるの世界の旅」
の最終回、世界中をめぐり、兼高さんがもう一度行ってみた街はどこですかの質問に、彼女は即座にサイゴンと答えた。
僕は驚いた。
貧しく、悲惨な国ベトナム サイゴン。
彼女はサイゴンを東洋の真珠と呼んだ。
いや、それは過去のことでしょう?
きっと、すっかり破壊されているに違いない街。
それでも、そんな国、そんな街サイゴンに、彼女は行きたいと言った。
彼女の言葉は、僕の記憶の底にはりついた。
1994年、僕はベトナムを訪れるチャンスを得た。
実は、悲惨さを確認する旅だった。
なにしろベトナムとは、「ベトナム反戦」であり、
なんどその言葉を叫んだろうか?
そのくせベトナムの何も知らなかった。
だからすこしも期待していなかった。
到着したのは深夜。空から見たホーチミン市、は真っ暗だった。
中心街、サイゴン地区はクルマもバイクも少なく、寝静まっていて、
街は薄暗く、奇妙に静かだった。レストランも時間のせいかどこにあるのかわからない。
バイクも少なく、車はなく、静かな深夜の街に、
洒落たバーが一件だけ開いていた。
QBarというBarだった。
そこでB52というカクテルを飲んだ。
翌朝、まだ暗いうち、ホテルの外から歓声が聞こえた。
冷房が効きすぎて目が覚めた。
まだ暗い、がらがらのメインストリート、
そんな街灯の下、裸足でサッカーをしている青年たちの歓声だ。
ベトナムの朝は早い。
その日の朝、訪れたベンタイン市場で、ベトナムは決して悲惨でも、貧しい国ではないことを知った。
ベンタイン市場は、予想に反してエネルギッシュな場所だった。
「サイゴンの昼下がり」
1994年10月 ベトナム、ホーチミンン、
サイゴン レタントン通り
⇩「サイゴンの昼下がり」のオリジナルプリントは購入は、下記から申し込んでください。一週間ぐらいでお手元に届きます。
この写真は、1994年10月、初めて僕がベトナムを訪れたとき、
ホーチミン市、サイゴン地区、レタントン通りで偶然見かけ、
無意識にシャッターを切ったなかの一コマだ。
望遠レンズを使用しているが、演出写真ではなく偶然捉えた奇跡の一枚です。
この写真のエピソードの一つに、
作家、沢木耕太郎氏が、この写真を見てサイゴンに行きたいと思ったと、「一号線を北上せよ」というエッセイに書いてあります。
⇩ サイゴンの昼下がりの秘密 沢木耕太郎との因縁
⇩沢木耕太郎「一号線を北上せよ」を読んだ感想。
憤慨。そして彼の失敗談をあつめたエッセイ集「ポーカーフェイス」のなかでの、彼の言い訳。 「言葉もあやに」
この写真「サイゴンの昼下がり」を販売しています。
撮影されてから、もう30年もたっているので、
この写真が、当時、さまざまなところで使用されたことはご存じないと思います。
都写美で、ベトナム特集があったとき入り口に大きくプリントして展示していました。
オリジナルプリント 注文はこちらから。⇩
★横木安良夫のオリジナルプリントのすべては、
横木自身がデータを制作し、自身でプリントしています。
ペーパーは、一番好きなEPOSONのアートペーパー、
ウルトラスムースを使用ています。
右下に、AlaOとサインが入っています。
額は楢材の額にオーバーマットしております。
スチールの額との違い室飾るとき、
室内のどんな場所にもフィットする額です。
この写真には、エディションはありません。
多くの人にこの奇跡の写真を味わっていただきたく思います。