亀井義則写真展「相去」あいさり
亀井義則写真展『相去 〜あいさり〜』
2021年11月2日(火) ~ 2021年11月14日(日)
※12:00-19:00(日曜17:00迄) 月曜休廊
町
小学校2年生まで住んだ、岩手県相去町(あいさりちょう)。亀井は自分の記憶のルーツを探るため2013年、40年ぶりでに訪れた。そこは植物に浸食された廃墟のようでありながら、住んでいた部屋も、遊んだ遊具も記憶もままの光景が残っていた。その後春夏秋冬、なんども通うことになる。この記憶の旅はまだまだ続いている。
相去 -あいさり-
楽しいと思うことを只々できる子供時代。そんな時期を過ごしたのが岩手県にある相去町七里という場所だ。小学2年生までそこに住んでいた。路線バスで通った小学校は木造で当時創立100年。グラウンドに人文字で100という字を書き、飛行機で撮影していたのを覚えている。通学に使う路線バスの停留場は家から離れていて、冬は腰まで積もった雪をかき分けながら通った。長靴には雪が入って足の感覚が無くなる。教室に入って長靴と靴下、母親が編んでくれたミトンを石炭ストーブの周りに置いて乾かすのが日課だった。今となってはそんな事やっていられない。当時は雪の中を凍えながら歩いてゆくのも苦では無かった。学校が終わればすぐ雪合戦をして日が暮れるまで遊んでいたのだから、思い返せば子供というのは不思議な生き物だ。
夏はクヌギの木を蹴飛ばしカブトムシやクワガタを捕まえ、近所の用水池に入りゲンゴロウやタガメを採った。家の周りは未舗装で砕いた石が敷き詰められた道しかなく、自転車の補助輪を外す練習をした時は何回も転んで膝を血だらけにして泣いていた。当然ヘルメット等しない時代。子供の安全云々という今から見れば、昔の大人は随分と野蛮だったかもしれない。
父親は転勤族でどこへ行くにも家族と一緒だ。最初は東京の荒川に面した工場で働いていたが、私が生まれて暫くして北上川に面した相去に転勤となった。遊ぶことが仕事だった子供の私と違って、母は見渡す限り田畑しかなく雪に埋もれる不自由さに辟易していたようだ。それまで都会に住んでいたのだから当然だ。
小学3年になると東京へ戻る事になった。東京に移り住んでみると全く自由が無いことに気がついた。遊ぶ場所は公園しか無く、走り回れる山や飛び込める池は無い。土や雪も無い。カブトムシもゲンゴロウも居ない。何をするにもルールがあってお金が無いとどうしようもない世界が、じわりと窮屈に感じられた。
時は過ぎ、そんな生活に慣れきった私は相去を訪ねる事にした。山奥にもコンビニがある時代だ。少しくらい便利になっただろうという期待は外れ、廃墟となった商店が連なり、人を見かける事は殆どない。父が勤めていた工場だけが煙を吐き続けていた。至る所が舗装されて余計寂しさに拍車をかける。友達の行方は知れず、地元の人とすれ違ってもどう話しかけたら良いのか分からない。私の想いとは関係なく、過去の住処は薄れゆく思い出のように、ひっそりと土に還るのを待っているようだった。
亀井義則 かめいよしのり
1966年東京出身 バライタ印画紙「月光」の製造開発に関わっていた祖父の影響で写真を始める
2010年 第10回 リコー フォトコンテスト 「new angle , new day ~私の視点~」 優秀賞
2012年 個展 「巴里 ~光との出会い~」 下北沢 BALLON D'ESSAI
2013年~17年 グループ展 AYPC(ALAO YOKOGI PHOTO CLUB)「DEARLY DAYS」
2019年 リコー「GR LIVE!東京」出演
2021年 GR☆Clubグループ展「架空の街〝G〟」