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最果てのヨーロッパ!すぐ隣のヨーロッパ!極東ロシアの都市ウラジオストクを3人のphotographerとひとりの小説家が撮った。1999-2017 7編!若木信吾、藤原沖、横木安良夫&佐々木譲!

1999 横木安良夫

1999年 すぐ隣の国ロシア、新潟から飛行機でたった1時間半の街 ウラジオストク>僕は突然その街を訪れたくなった。それはどんな場所なのか全く想像ができなかったらだ。ウラジオストクの情報はほとんどなかった時代だ。
それというのも社会主義ソ連時代、ウラジオストクは極東艦隊の軍港だった。そのためウラジオストクに住む人間以外、外国人は当然としてソ連人でさえも訪れるには難しい場所だった。日本人にとってすぐそばにありながら存在しない秘密の都市だった。ソ連以前、帝政ロシア時代は浦塩と呼ばれ与謝野晶子が、男を追い、訪れたことでも有名だ。そして日露戦争のおりには
バルチック艦隊が目指した場所でもある。写真家である僕は、世界中をこの目で焼き付けている。ただ、たいていはすでに多くの情報を持ち、行く前からかなりを想像することが可能だ。だからなるべく情報はカットして、自分の目で見ることを大切している。しかしウラジオストクはそんな必要がなかった。想像しようがなかったからだ。未知の場所に行くのは興奮する。
新潟から乗ったイリューシンはまるでバスのように上の棚は網棚だった。揺れるたび頭上の荷物が落ちそうだった。真っ暗なウラジオストクについて入国審査の時、誰もならばず、狭いロビーでは押し出されるように肩を重ねた。ただ検査はゆるく、カメラを調べられることもなかった。でもたっぷり2時間はかかった。外で待っていたアレクセイ君はすっかり待ちくたびれていた。彼のクルマ、東京で5万円で買ったトヨタクレスタは税金が30万以上もかかったらしいが、夜も10時ぐらになりウラジオストクの街に目指したが、街灯はまったくなく、暗闇を猛ピードでぶっ飛ばした。彼の運転はちょっと怖かった。ようやくついたウラジオの街はひっそりとして、店は全然あいてなかった。予約した由緒あるホテルに行くと、予約が入ってないという。部屋もあいてない。ロビーにはロビーガールがソファーを占領していた。しかたがなく近代的なヒュンダイホテルに泊まることにした。そこもロビーガールがいて驚いた。おなかがすいていたので通訳でコーディネーター、ドライバーのアレクセイ君に探してもらった。11時すぎていてホテルのレストランも閉まっていた。一軒だけ閉めかけの小さなレストランを見つけたら、ボルシチしかないといわれた。ボルシチ結構。救われた気分だった。カメラはキヤノンeos1 eos5 それに、リンホフテヒニカという4x5の大型カメラも持っていた。当然すべてフィルムで撮っている。この表紙は、1999年アサヒカメラの11月号の表紙になっている。横位置写真を縦位置にトリミングしている。このカメラは4x5.レンズはスーパーアンギュロンの65mmf8フィルムはプロビアだった。

2003 若木信吾

 初めて行ったウラジオストックで、目に飛び込んできたのは無言で乗客たちが乗り込んでいく「渋谷ゆき」と書かれたままのバスだった。日本から山のように船に積み上げられて送られてきた中古車たちが、何の変更も装飾も加えられず使われているのを見て、どこか切羽詰まった状況を感じた。滞在中、街の中心の広場でカラオケをする若者たちや、健康のためにと冷たい海にほぼ全裸で飛び込んでいく中年女性たちを見ているうちに、なんだか大丈夫な気がしてきた。 きのこの漬物とウォッカのショットをあおり、ペリメニをたらふく頬張った後、日本人墓地に行くと戦時中まとめて埋められてしまった遺体の骨たちが、訪れた遺族のために掘り起こされているところに遭遇した。見上げた空が一瞬、どこか別の時間の空と繋がっているように感じた。

2008 2009 横木安良夫

極東ロシアの都市ウラジオストクは1992年まで旧ソ連太平洋艦隊の基地として外国人は立ち入ることできない秘密都市だった。2008年6月と2009年9月、2度にわたり僕は訪れている。日本海に面した新潟空港からジェット機でたった90分。そこは東欧の文化そのままの、最果てのヨーロッパだった。
実は9年前の1999年にも訪れている。当時ソ連崩壊の影響で街は閑散とし
デパートのショーケースは空っぽだった。市場に行っても皆不安な顔をして写真撮影を嫌った。それが9年後にはすっかり変わりファッションビルが建ち車の溢れる大都会になっていた。若者たちは英語を話し写真を撮られることを楽しんでいた。そんな街を僕はコンパクトデジカメを持ちノーファインダーで撮影した。

2016 藤原 沖

2016年5月、極東ロシアのハバロフスク、ウラジオストク、ナホトカを訪れた。祖父が戦後10年近くに渡りシベリアに抑留されていた地を自分の目で確かめることが、今回の旅の目的だった。
最初に訪れたのは、ハバロフスク。
アムール川の雄大な流れと、ヨーロッパの雰囲気が漂う街並みが印象的な美しい街だ。郊外の広大なロシア人墓地の一角に日本人墓地があった。60万人とも言われるシベリア抑留者のうち、約1割が過酷な環境で命を落としたという。祖国への帰還の夢を抱きながら、シベリアの大地で多くの日本人が永眠し続けている。その日の夜、ウラジオストク行きのシベリア鉄道の夜行列車に乗車した。夜明け前に目が覚め、果てしなく広がるかのように見える荒野を車窓からぼんやりと眺めていた。ここから見える風景は、抑留者が日本へ引き揚げた当時からあまり変わらないのかもしれない。
ウラジオストクに到着後、日本への引き揚げ船が出ていたナホトカに向かった。僕はナホトカの海岸に立って、雨上がりの青い空と海に向けてシャッターを切った。祖父は生還を果たした60数年前、どんな思いでこの景色を見つめていたのだろうか。

2017 小説家 佐々木譲 Vol.1

わたしは純粋な観光旅行や、写真を撮ることが目的の旅行はほとんどしない。大部分が、将来書く小説のための取材旅行だ。
つまりそれは、舞台となる土地の姿かたちを、歴史的事件の現場を、確認するための旅行だ。作品の骨格を作り、細部を詰め、ときにはエピソードのいくつかを拾うための旅行、ということでもある。またそれは、その土地のひとびとの暮らしの様相を、土地の色を、匂いを、その季節の気候を、肌で知るための旅行にもなる。2017年10月のウラジオストック 旅行も、それだった。
この数年来、わたしはロシアと日本との関係について関心が募り、関連する土地を取材してきた。中国東北地方旅行、日露戦争の戦跡を訪ねた旅も、この取材の一環だ。
こうした取材旅行では、撮る写真はけっして「作品」ではない。ノートへのメモの代わり、記憶の補助、としての写真が中心となる。
撮る対象も、ある意味では散文的なものばかりだ。具体的には、わたしはまずその土地の基本的な地形、高い位置からの眺め、そして都市構造を撮る。ランドマーク、街路のありさま、駅とかバスターミナルなどの公共施設、歴史的な事件が起こった場所を撮る。列車を撮り、バスを撮り、博物館の展示を撮る。働くひと、家族、若い女性、子供たちを撮る。繁華街や市場や露店を撮る。
ウラジオストックでいちばん時間をかけて見学したのは、アレクセイ皇太子要塞(ウラジオストック第7要塞)と、ルスキー島のヴォロシーロフスカヤ砲台、それに復元されたパルチザンのキャンプ、である。シベリア鉄道の起点、ウラジオストック駅や、操車場周辺の視覚的情報も、わたしには必要だった。
こうした撮影では、構図には凝らない。シャッター・チャンスを待たない。必要なのは色彩を含めて、その対象が持つ情報だ。画面がうるさくなることを受け入れる。後にその土地を思い起こし描写するときのための、記録性優先の写真を撮る。このウラジオストック旅行で撮った写真は、つまりはそういう種類のものだ。
もちろんここには、もう少し私的な好奇心で撮ったカットも混じっている。強い意識なしにふとレンズを向けてしまった情景やものも写っている。
つまり取材の記録と、異国の街への追憶のカラー写真を、この写真集にまとめた。旅行の記録保管の意味もある写真集だ。Vol.2のほうは、取材者の目ではなく、完全に気ままな旅人の視線によるモノクロームの写真集という区別である。ふたつの写真集は、いわば相互補完の関係になる。

2017 小説家 佐々木譲 Vol.2

CRP RUSSIA 極東の街 VLADIVOSTOK 2017年 ウラジオストク Vol.2 モノクローム編
2017年10月のVladivostok旅行は、観光ではなく、写真撮影のための旅行でもなかった。将来書こうと構想している小説のための現地確認、下調べの旅行だった。
ウラジオストックは、日露戦争のキーワードのひとつとなる都市であり、ソ連時代は外国人立ち入り禁止の軍港であった。また日本軍によるロシア内戦への干渉戦争(シベリア出兵)の主な舞台のひとつだ。そんなウラジオストックの歴史に関心があるので、時間をさいて観てまわったのは、軍事施設が中心である。中でもとくに記せば、アレクセイ皇太子要塞(ウラジオストック第7要塞)と、ルスキー島のヴォロシーロフスカヤ砲台、それに復元されたパルチザンのキャンプなどだ。
さらにウラジオストックという都市の基本的な構造、町並み、公共施設、ランドマークといったものを、見落としがないようにひとつひとつ回った。そこではカメラはメモ帳の代わりであり、言葉や文字を使っている時間の余裕がないときの、記憶の補助具として使うことになる。
でも、取材旅行だからといって、24時間ずっとガイドさんに案内されて歩いているわけではない。プライベートな時間、息抜きの時間ももちろんできる。そんなとき、貪欲な取材者の観察眼ではなく、気ままな旅行者の視線を持ちたくなる。猟師ではなく、散策者としての目でも、周囲を眺めたくなる。

散策者となったら、カメラをモノクロ・モードにする。写るものから情報性を思い切り減らしてみる。実用性を排除してみる。
こうして撮ったモノクロの写真を、整理してみたのがこの写真集だ。カラーで撮った写真集のVol.1と相互補完関係になる。
それにしても、成田空港から双発プロペラ機で二時間三十分という距離、ウラジオストックのこの近さは意外だった。このときまで訪ねていなかったことが悔やまれた。自分の年齢のせいもあるのか、心理的にはとても遠くにある都市だったのだ。
もっと早くに来ておくべきだった、というのが、着いたその日からの後悔だった。


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ALAO YOKOGI  横木安良夫
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