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【小説】カレイドスコープ 第8話 恭平

 前回

 
 ドナー登録をした病院からメールが届いたのは、乗船準備の為に研修として派遣された隣県の漁港で生活を始めて3日目の事だった。

 一日のほとんどを漁業の知識の詰め込みと作業の手順を覚えるのに費やしていた為、自分がドナー登録を数週間前にしていた事実でさえ恭平は忘れかけていた。

 作業員として怪しまれないように船内で振舞う為、5日間の研修期間で必要最低限の知識と作業手順を覚える必要があり、もう一人の候補者と一緒にこの漁港に送られてから、司法試験を控えた学生並にストイックな生活を強いられていた。

 もう一人の候補者は、どうやら一度この仕事の依頼を受けたにも拘わらず行方をくらませた為に、今は厳しい監視にさらされて懲罰も受けていたようで、その顔には四六時中絶望を深く滲ませた表情が張り付いていて、そのお蔭もあって未だに碌な会話も出来ていない状況だった。

 ふとしたタイミングで泰人の事を思い出す瞬間はあったが、自分が考えてもどうにもならない事をあれこれ考えても無意味ではあったし、じっくり考えるほど自由な時間がある訳でも無いので、日に日に心の中で心配をする気持ちは風化していった。

 恭平はこの場所に来る数日前に、仕事の事前準備の為に保険の契約書も揃え、妹のツグミの口座にこれまで貯めていた貯金も全て振り込んでいた。

 実際実家の経営している会社の負債がどれくらいまで膨れ上がっているかなど、恭平には分かるはずは無かったが、それでも恭平の貯金額程度の振込など焼け石に水であることくらいは容易に想像が出来た。

 ツグミのfacebookはしばらく更新されていないので、家族の近況が分からないもどかしかを感じてはいたが、だからといってこの惨事を招いた元々の要因が自分であるので、ノコノコと出戻って許しを得ようとする選択肢は、恭平には一切無かった。

 病院から届いたメールの件名は、「来所依頼のお知らせ」とあり、ドナー登録した骨髄液の移植が可能である患者の存在が示唆されており、指定期間に再検査を含め病院に来所してほしいとの内容が記されていた。

 漁港での研修が終わると、今度は一度事務所に戻って本来の作業の為の研修が始まるので、その移動日に時間を作らないと病院に立ち寄るのは難しそうなスケジュールだと感じ、一瞬メールに返信せずに無視しようとしたが、猛烈な後悔の気持ちが湧きあがりそうになった為、舌打ちをしながらももう一度スマホの画面を立ち上げ、その移動日になんとか時間を作って病院に立ち寄るように返信した。

 久々に訪れた神崎の事務所には、珍しく神崎自身は不在であったが、どう贔屓目に見てもヤクザの下っ端にしか見えないような輩が3人ほど部屋の中にいるのが分かった。

 その中に混ざって似つかわしくないハーフのような女の子がいたので、視線をどこに定めたらよいのか分からずにいると、下っ端の一人に顎で隣のパーテーションの方に行くよう促されたのをきっかけに、その場を静かに退散した。

 ハーフの女の子はその間じっと視線をこちらに向け、10代後半のような幼さの中に似つかわしくない老獪した雰囲気を醸し出していたのが印象的だった。

 少しウエーブした髪の毛と浅黒い肌は、南方系の血が流れているだろうことは想像出来たが、どことなく日本人特有の神経質さも同時に感じさせる雰囲気を併せ持っていて、オリエンタルな魅力を放っていた。

 隣にあるパーテーションで区切られたブースに入ると、少し早く事務所に着いた為にまだ次の研修先の説明係は到着してないようであったが、ソファに座りこんでいる男がいたので何気なく横顔を見ると、あのマンションの清掃以来会ってなかった泰人だと分かった。

 「よう、久しぶり」

 泰人とはそんなに親しい間柄では無いのは自覚していたが、しばらく周囲に普通の会話を出来る人がいなかったのもあり、恭平は反射的に近い感覚で気軽に話しかけた。

 ただお互いの境遇を或る程度分かっている為、藪蛇にならないように簡単に二言目が出てこらず、慎重に次に発する言葉を選びながら、恭平は泰人の対面のソファに腰を下ろした。

 神崎から泰人が借金取りの片棒を担いでいるとは知らされたが、それについてあれこれ尋ねるような野暮な真似は出来なかったので、つい会話の話題を作る為に、これから病院に行ってドナーの適性検査をする事を話していた。

 「あの清掃の仕事の帰りに駅前近くでビラ配りのチラシを貰ってさ、気まぐれに捨てずに読んでみたらドナー登録のお願いについて書いてあったんだよ。 その時は誰かの役に立てたらいいなって安易な気持ちで早速次の日に骨髄ドナーの登録したんだけど、よりによってこんなドタバタしているタイミングで提供者候補が見つかるっていうのも、なんとも皮肉な話だよな。」

 別に発した言葉に他意は無く、会話のきっかけにでもなればくらいの考えで話したところ、恭平が知っている泰人とは明らかにかけ離れた反応をその言葉に対して見せたので、それが却って恭平に動揺を与えた。

 泰人は恭平が話し始めるまではスマホの画面を眺めていたまま無言で、まるでその部屋には泰人以外の人間が誰もいないかのような態度で恭平に関心を示さなかったのだが、ドナー登録の話である事が分かると、瞳の奥まで射抜くような視線で泰人を凝視し、その表情には若干の興奮が見え隠れしているのさえ分かった。

 「…俺の話が、どうかしたか?」

 泰人がソファを立ち上がって口を開きかけたところ、待ち合わせをしていた説明係がそのタイミングでパーテーションの向こうから現れたので、勢いが削がれてしまって恭平も場の空気に従う形になった。

 ただ泰人がパーテーションを出る寸前、恭平の手に強引に折りたたんだメモを握らせたので、恭平はそれをそっとパンツのポケットに入れ、再びソファに腰を下ろして説明係からの話を聞く準備を整えた。

 事務所での話が終わった後、病院で骨髄・末梢血管細胞の移植の流れについて説明を受けたが、恭平はすぐにその場で移植を承諾する為の書類に署名をする事が出来なかった。

 何故なら先ほど事務所で具体的な出港日を聞かされたので、骨髄を移植する為に1カ月以上の期間を必要とする事が分かった今、仕事を投げ出してまで移植の日まで陸地に留まる事は、選択肢としてはあり得なかったからだ。

 あまりにも医師から承諾してくれるよう懇願された経緯もあり、少し心が揺れる瞬間もあったが、ここでそのような選択をしてしまうと、唯一実家とツグミを救う事が出来る可能性を手放さなければならない事になってしまうので、結局曖昧な返事をしてその場をやり過ごした。

 右手に握った封筒には、署名のされていない書類が入ったままになっているが、それをどうしても捨てる事が出来ずに歩いていると、パンツのポケットに入っていたクシャクシャになっている紙片に気付いて、その場で広げて何が書いているのかを確認した。

 そこには走り書きされた数字が羅列しており、最初の三桁から推測すると携帯電話の番号のようであった。

 恭平はこれまでに何度か泰人と会ってはいたが、その場で盛り上がってお互いの連絡先を交換するような関係でも無かった為、このタイミングで電話番号を教えられる事にもちょっとした違和感を覚えた。

 しかしそのまま無視して電話を掛けないのも気が引けるので、戸惑いながらも番号を押して耳にスマホを当てて待つと、2コールもしない内にすぐ繋がり、「誰だ?」と警戒心を滲ませた低い声が聞こえてきた。

 「俺だよ。 岡野恭平。 そっちは泰人だよな?」

 スマホの向こうから泰人が仄かに安堵している雰囲気が伝わってきて、恭平も緊張が解けたせいもあり、堰を切ったように話を続けた。

 「まさかお前が連絡先を渡してくるとは想像してなかったよ。 余計なお世話かもしれないけど、ちょっとは気になってたんだよな。 今回の仕事の件もあって、ひょっとして俺の事良く思われてないんじゃないかって思ってたし。」

 電話で話しているうちに、久々に旧友と会話しているような錯覚を恭平は段々感じ始めていたが、泰人はそれに対して打ち解ける様子では無く、真に迫った口調で「これから会えないか?」と一言提案された。

 あまりにも真剣な口調に恭平はやや戸惑ったが、ここ数カ月で養った人を見る目の基準で判断すると、泰人は決して根っからの悪人ではないと思えたので、詳しい理由は聞けなかったが会うのを承諾した。

 比較的駅に近い公園という立地でもあり、陽はとっくに落ちている時間になっても、周囲が見渡せるほどの照明が各地に設置されていた。

 スマホを覗き込むと、泰人と待ち合わせの時間の20時まで後5分ほどあったので、時間つぶしにSNSやポータルサイトの流し観をしていると、未だに芸能人の2世がアーティストデビューを延期した事がトップニュースを賑わせていて、日本は本当にとても平和な国ではないのかと錯覚する程であった。

 恭平はそんなに芸能ゴシップには興味が無い方ではあったが、この2世タレントの柴田亜侑美という名前は、ここ最近で覚えてしまったくらい世間を席巻していた。

 スマホを閉じて再び前を向くと、10メートル先くらいに明らかに他の通行人とは異質の雰囲気を漂わせている人間を発見したので、それで容易に泰人が到着したのが分かった。

 泰人は恭平を認識してもとくににこりとせずに近付き、有無を言わさずに恭平が座っているベンチの隣に座った。

 「今日はわざわざ時間を作ってもらってすまない。」

 これまでの泰人の言動を見聞きしている恭平にとっては、泰人が座ってからの開口一番の言葉がそれだったので、意外過ぎて面喰ってしまった。

 「あぁ、別に構わないけど。 それよりも一体どうした?」

 泰人は少し間を置いた後、言葉を慎重に選んでいるような様子で話し出した。

 「今、俺の大切なツレが重い病気で入院してる。 治療自体は現状そんなに効果が表れている訳じゃないし、考えたくないが、病状が急変する可能性だって十分にあるって言われてる。」

 一言ずつ言葉を紡ぎだす様子は、恭平から見てとても不器用そうな雰囲気を漂わせており、それが却って真実味を増しているのが分かり、自然と警戒心が解けていった。

 「それで病気を完治させるには、方法としては骨髄移植が最適なんだが、人と比べて特殊な性質の血液の為、合致するドナー提供者が現れる可能性はとても少ない可能性だって説明を受けた。」

 恭平は泰人の話を聞きながら、その「可能性」がふと自分にあるかもしれない事実に直面して、急に鼓動が早くなっていった。

 「でも数日前、合致する可能性のあるドナー候補の存在がいるって事を知らされたよ。」

 次にどんな言葉が発せられるのか神経を集中して待っていたが、急に事切れたかのように泰人は黙りこくり、ポケットをまさぐって煙草を一本出すと、火の点きの悪いライターを何度か擦って結局吸うのを諦めた後、先程の緊張感とは程多い弛緩した口調で、「俺が聞きたい事、分かるよな?」と呟くように口に出した。

 恭平は頭の中に「溺れる者は藁をも掴む」という言葉が浮かんでは消え、目の前で小さくなっている泰人が、今まで抱いていたイメージとは真逆のか弱い存在に見え、なんとか傷付けずに冷静に諭す事が出来る言葉を選んで返答をした。

 「確かに昼間ドナーの適合検査について話をしたけど、そんな偶然ってあるのかな? 実際ドナー登録をしている人数は俺達が考えているよりも多いだろうし、俺が今日適合する可能性があるって話をしたけど、それがあんたの大切な人に一致する確率なんて、宝くじが当たる可能性よりちょっとマシなくらいじゃない?」

 恭平は自分が泰人の大切な人を救えるわずかな可能性に期待しながらも、安易に盛り上がって後でそうでない事が判明した時、泰人を絶望するほどに落胆させる事が何よりも怖かった。

 自分自身が現在ままならない生活を送っている中、どんなに頑張って足掻いても家族をすぐに救えない不甲斐無さを身に染みて感じているので、見せかけの希望に手のひらを返された時の辛さが分かっていたからだ。

 「ただ…、もし本当に俺が適合するドナーだとしたら、必ず移植手術を受ける事に同意するよ。」

 かりそめでもいいから、恭平は泰人を少しでも慰めたいと思った。

 泰人は恭平の言葉を聞くと、俯き加減だった顔を上げ恭平の方に顔を向けると、何かを決心したかのような表情で話を始めた。

「今日病院より連絡があって、ドナー候補者の同意が得られなかったって言われたよ。 理由の詳細は教えてもらえなかったけど、どうやら仕事関係で都合が付かないらしい事は分かった。 これってあんたの事じゃないのか?」

 恭平は様々な符合が一致した感覚を感じ、すぐに泰人の問いかけに反応が出来なかった。

 友情に似た感情を持ち始めた相手を、助ける事が出来るかもしれない事に対して、ゆっくりであるが確実に気持ちが自己肯定に向かっていき、殺伐としていた生活に光が差し込むのを感じた。

 しかし一方移植手術に同意した場合、今請け負っている仕事は放り出さなければならなくなるので、一体どうすればよいのか分からず、結局何も泰人に言う事が出来ないまま、お互い無言でしばらくその場に佇んでいた。


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