【小説】カレイドスコープ 第3話 泰人
前回
泰人が悪夢から覚めて飛び起きた時、一瞬現実と夢が混在している曖昧な意識に思考を支配されながらも、咄嗟に気持ちを落ち着けるよう体全体に力を入れ、隣で寝ている沙耶に動揺を気付かれないように努めた。
左隣の暗がりを目を凝らして見ると、沙耶は大きく深呼吸して定期的な寝息を立てて熟睡をしており、それは泰人を少し安堵させた。
泰人は寝ていたにも拘わらず寝る前よりも全身の疲労感が強い事を気付き、背中に限っては寝汗に塗れて肌にTシャツが張り付いていたので、恐らく寝ている間に寝言か呻き声も漏らしていた可能性は強いが、深夜まで仕事をしている沙耶は疲労のせいか睡眠が深かった為に、それらに気付かずにすんだようであった。
先ほどまでの出来事が全て夢だった事に落ち着きを取り戻し、大きく背中で呼吸して動揺を払い除けようとするのだが、何度も繰り返して未だに過去の呪縛に囚われて抜け出せない自分の不甲斐無さが腹立たしくなり、布団を出て煙草に火を点けて気を紛らわせた。
夢の中で首を絞められた感覚は起きても実際に肌に残っており、首に残る違和感を恐る恐る触って確かめ、そこに何も無いことが確認出来ると漸く呼吸を整える事が出来た。
普段はなるべく過去の事を考えず、精神的にも随分強くなった気ではいるのだが、ふとしたタイミングで過去にフラッシュバックしたり、今回のように夢の中で強引に過去に引き戻されたりすると、泰人は自分が途端に無力な7歳児になったかのように感じていた。
隣に寝ている沙耶を眺めると、その寝顔で泰人の暗澹とした気持ちは少し緩和され、心が若干落ち着いた時点で再び体を横にすると、沙耶を毛布の上から軽く抱きしめてから目を閉じて、何も考えないように頭の中を無にして、泰人は眠りにつくのをひたすら布団の中で待った。
「目玉焼きはいつもと同じようにマヨネーズをかけていい?」
沙耶はキッチンで料理を手早く続けながら聞いてきた。
泰人は電子レンジの発する昨夜の残り物のスープを温める音に負けない程度に「ああ」とだけ頷いて、インスタントコーヒーの素をカップに適当に入れ、無造作にお湯をそこに注ぎ込んだ。
結局一度悪夢で目が覚めてから、ほとんど一睡も出来ずに朝を迎えてしまっていた。
沙耶に余計な詮索をされたくないのもあり、沙耶が目覚まし時計の音で目覚めた時、わざとそれに気付かない振りをして、熟睡しているポーズを取っていた。
沙耶がテーブルに並べているキャラクターものの食器群が、強引に泰人にポジティブ感覚を強制するように思えてき始め、食欲がさらに低下した。
沙耶の性格は決して幼くなく、むしろ生活面に於いては地に足がついているような実直さを持っているのであるが、インテリアや食器等はパステルカラーやキャラクター物を多用していて、まるで誰か全然知らない他人の住んでいる部屋に仮住まいしているような雰囲気を感じる事がある。
沙耶の第一印象に関してもしっかり者に見られることが多いのであるが、本人を知れば知るほど如実に心のバランスをどこかで失っているのであろう事がふとした瞬間に感じられ、泰人は同棲を始めた直後にそのアンバランスさに対しての疑問が解け、あらゆる事象に関しての符合が一致した。
ただそれは決して沙耶に対する想いを遠ざける原因にはならず、むしろ必死で心のバランスを保とうとしている姿が泰人には健気に見えて、更に愛おしく感じる事が出来ていた。
大きくミッフィーが描かれたエプロンを外して、用意が整った朝食を前にして、沙耶はテーブルの前に座って泰人に一緒に食べ始めるよう促した。
「いただきます」と手を合わせた瞬間にいつも目に入る彼女の手首の無数の傷跡は、もう見慣れた光景になっていた。
あまり食欲は無いが余計な心配をさせないよう、泰人は皿に乗っているベーコンやレタスを箸で食べているように見せる為細かく切り分けながら、上機嫌そうにヨーグルトをスプーンで掬っている沙耶の顔を盗み見した。
病院での再検査結果が出るのが今日であるのを覚えていたので、沙耶が不安になっていたり落ち込んでいたりする事の可能性も考えていたが、いつも通りの様子だったので泰人はホッとしていた。
貧血のような症状が出たり疲れやすくなったりするのが増えたのをきっかけに、一度病院で検査をしてもらったのだが、検査結果が芳しくなかったせいもあり、1週間前に再検査をしてもらったのだ。
「今日は何時に病院に行くつもり?」
なるべくさり気ない風を装って沙耶に聞いてみると、一瞬ヨーグルトを掬う手の動きが止まり、「あっ、そういえば今日だったね、検査結果」と、まるで他人事のように返事を返していたので、泰人は流石に少しだけ不機嫌な表情を浮かべ、意地悪な返答をした。
「今度トイレの中でぶっ倒れているのを見つけたら、救急車を呼ぶ前にスマホでその姿を画像に取って、ずっと保存しておくからな。」
沙耶への心配をぞんざいにされたような不満を、泰人は小学生のように稚拙な言葉を並べて表明したのだが、その言葉には邪気が介在しないせいもあり、沙耶はクスッと笑ってその場をやり過ごすだけだった。
高齢者の二人暮らしにしては量が多過ぎる布団の塊を、泰人は次から次にトラックの荷台に立て続けに投げ入れ、一段落したところで昼の休憩に入ることになった。
遺品整理の仕事を始めて半年ほど過ぎ、ようやく要領が掴めるようになってきたところ、今回の依頼の現場リーダーとして動くことになったのだが、いざ実際に取り掛かると狭い部屋にみっちりと置かれた異常な荷物の多さに、タイムスケジュール通りに進まない状況に苛立ちを感じていた。
助手とアルバイトは二人連れだって近くのコンビニに弁当を買いに行ったので、泰人は一足先にトラックの運転席に入ってエアコンを点け、沙耶に作ってもらった弁当を広げて食べ始めた。
正直沙耶は料理がそんなに得意ではないので、弁当に入っているおかずの半分は冷凍食品だったりスーパーのお惣菜だったりするが、食に対して大きなこだわりをもっていない泰人にとっては、腹を満たす目的を十分に果たしているので全く問題は無かった。
ただ弁当の盛り付け方があまりにも雑に見えるので、同僚たちからは自炊して作っているように思われているようで、色々詮索されたり冷やかされたりされない分面倒ではなく、堂々と広げて食べる事が出来ていた。
沙耶の天真爛漫さや少女趣味とは裏腹に、ほとんど無自覚と言ってよいほどにがさつで不器用な面は、一人の人間としての性格としてはバランスを欠いているように他人からは見え、その歪さが彼女の本来持っている魅力を世間から隠しているように感じられていた。
初めて沙耶と出会った電車の停電事故の時から、泰人は彼女の中に拭いきれない大きな闇があるのを感じるのと同時に、痛烈に寄り添っていたい衝動に駆られ、他人に対して執着する気持ちがある自分に驚かされた程だった。
それは寒い2月の半ばの夜半前に電車に乗っていた時で、前触れもなく車内の電燈が全て消えて急停止すると、しばらくして空調までも止まってしまい、完全に車内に缶詰め状態になってしまった事故だった。
泰人はその日の昼に違法ドラッグの売買で買い手と金銭面で揉めたこともあって、停電が起こった時に苛立ちは助長され、破裂寸前の風船のように、次の何かのタイミングをきっかけに誰かに向かって蓄積された鬱憤を暴力に変えてぶつけそうだった。
車内の人数は20名前後で、突然起こった出来事に狼狽えてはいるものの、パニックに陥ったり怒声を上げる者はおらず、ただ黙って復旧を待っているものが大半であった。
怒りを抑えるために泰人は眼を瞑って大きく深呼吸を始めたが、その瞬間少し奥の暗闇から小さな女の子が泣いているのが聞こえてきた。
泰人は小さく舌打ちしながら泣き声がする方向を睨んだが、電燈が消えているのもあっておぼろげにしかシルエットが見えず、女の子が泣きながら何か言っているのが聞こえてくるのだが、その声に被さって母親と思しき声が「大丈夫だから、ねっ、大丈夫よ」と強張った声で言っているのが耳に入り、少しだけ様子が変であることが分かった。
目を凝らしてもう一度泣き声がする方を見つめると、今度は男の悲鳴が耳に入ってきたので、咄嗟に泰人は座っているシートから立ち上がり、暗闇の中で身構えた。
その5秒後くらいに社内の停電が復旧し、明かりに照らされた車内で目にしたのは、泣いている子供をしゃがんで抱きかかえている母親と、その後ろで太ももから血を流している男性と、血の付いたボールペンを右手に握って呆然としている女性だった。
状況が分からず泰人も呆然としていたが、母親は女性に向かって言葉にならないお礼を伝えていたので、男が暗闇に乗じて女の子に何かをした事が分かった。
血を流して倒れていた男は苦痛に顔をゆがめさせながらも、車内の他の人達からの冷やかな視線を物ともせず、自分の太腿を刺した女性に向かって明らかな敵意を見せて立ち上がった。
犯行現場を衆目にさらされた事による羞恥心より、自分に危害を加えた女性に対しての憎悪が大きく勝っていたのか、怒声なのか呻き声なのか分からないような奇声を上げると、男は自分を刺した女性の右腕を左手で掴み、固く握った右の拳で女性の顔を殴りつける姿勢を取った。
車内の誰もが目の前で起こっている非日常の出来事に呆気に取られていたが、一瞬の内に泰人が二人のすぐ近くまで迫っており、男が女性の顔を殴る手前に泰人の拳が男の右頬を打ち抜いていて、男の体はまるでピアノ線が切れたマリオネットのように不自然な動きで横に飛んで行った。
泰人のその行為は義憤に駆り立てられた訳では無く、どちらかというとその日の上手くいかない事を消化させる為の、丁度良い腹いせのような感覚でいたのだけれど、心のどこかでこの女性を守れたことに安堵している自分を発見し、その感覚に激しく動揺した。
車内で短時間の間に立て続けに起こった出来事に対し、どのように反応すれば良いのか分からなかった他の乗客は、ただ水を打ったように静まり返っていたが、泰人が助けた女性が動き出すと、みんなの視線はそちらに釘付けになった。
恐怖から逃げ出すために、その場から女性が立ち去ることを誰もが予想していたのだが、一歩前に踏み出すと、改めて右手に持ったボールペンを強く握り返し、泰人に殴られて転がっているところまで進むと、今度は相手の右腕に向かって力強くボールペンを振り下ろした。
泰人に殴られて意識が朦朧としていた男は、右腕に刺さったボールペンの痛さで意識が回復し、狂ったように体を動かしながら言葉にならない罵詈雑言を吐き出して始めた。
あまりにも異様な光景に車内の乗客も動揺し始め、誰かが通報したのか車内に緊急停止の放送が流れだしたので、泰人は咄嗟に女性の手を掴んで隣の車両に引っ張っていった。
女性が抵抗することも考慮して警戒しながら手を引いたのだったが、予想外に素直についてきてくれて、先ほどの攻撃的な行動が幻だったのでないかと錯覚するほど大人しかったのが、逆に女性の異常さを際立たせていた。
まだバッグには違法ドラッグが残っており、警察が来る前にこの場から逃げる必要があった為、車両が完全に止まったところで泰人はドアの解除ボタンを押し、女性を先に下ろすと自分も次に降りてその場を立ち去った。
住宅街を抜けて交通量が比較的多い大通りに出たところで、泰人は女性がまだその右手にしっかりと血の付いたボールペンを握っているのを発見し、軽くため息を付いた。
「そんな物握ったまま歩いてちゃ、通夜の席にタキシードで出席しているくらい悪目立ちしてるぜ。」
女性は泰人の言葉を聞いてからじっと自分の右手を眺め、それから泰人の顔を交互に見ると、先ほどまではほとんど温度を感じる事が無かった表情に柔らかさが加わっており、俯いたかと思うと肩を小刻みに震わせて笑いを堪えていたようだったので、急激な変化に泰人は警戒を強めて様子を伺った。
「助けてもらってありがとうございます。」
初めて聞いた女性の声はハキハキしてて抑揚もあり、一見突飛な行動を取るようなタイプには全く見えず、それが却って彼女の異様さを際立たせていて、泰人はこれ以上面倒な事には関わらないよう、素っ気ない態度を取って踵を返した。
「追いかけている奴もいない事だしここで別れよう。 それじゃ俺はこのまま家に帰るから。」
ほぼ反射や本能に近い反応で泰人はこの女性を助けようと瞬時に判断したのだが、どうして自分がそのような行動を取ったのかは説明が付かず、この場を上手く去る為の踏ん切りが付かずにモヤモヤしていたのだったが、女性の袖から見えた手首の傷が見えた瞬間、自分の中で腑に落ちる物があった。
どんなに鈍感な振りをして日々過ごしていても、決して頭の中から消す事の出来ないこの世界に対しての大きな絶望は、なんとか日々を生き抜くために為に心に幾重にも壁を作って防いでも、とある瞬間に津波のように泰人の心に押し寄せて、全てを無残にも洗い流してしまうのだ。
女性の前で一瞬にして無力な7歳児に後退してしまった泰人は、無防備な自分の姿に恐怖し、体が震えてくるのを抑えながら逃げるようにその場を立ち去って行った。
その出来事が、泰人と沙耶が初めて会った時の思い出であった。
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