
マシュマロデイ
1985年3月14日
大通りに面したファミレス。
「ランチみっつ」
「かしこまりました」
「もう、大学入試以上の詰め込み、大窪はどうだった?」
「解剖、教授がミステリー小説の読みすぎ。右の動眼神経と三叉神経がやられていて、外転神経も、でも顔面神経から下は大丈夫っていうことだよね」
「問題は分かったけど、図解せよ、はできなかった。絵、下手すぎ。あーあ、追試かも」
通路を挟んだ隣のボックス席に、女の子が3人、案内された。同級生たちと比べるとリップが濃かった。
「いらっしゃいませー、お席はこちらでよろしかったでしょうか」
「はい」
上島は女の子たちを見ながら「もういいじゃーん、終わったんだし」
一人は当時はやりのワンレン、一人はレイヤー、そしてショートボブ。
上島はすかさず「科学万博関係者ですか?」と声をかけた。
「あ、はい、万博です」ワンレンの子が戸惑いながら答えた。
「コンパニオンさん?」
「UCCコーヒーでーす。学生さん?」とショートボブ
「医学の1年生でーす。今日試験が終わったところ。もうすぐ開会式じゃないの?」
ショートボブの子は目をくりくりさせながら、
「そうなの。今日、明日がゆっくり外出できる最後かも……」
「僕たちは今さっき勉強から解放されたところです、多分追試あるけど」
「いいなーじゃあ春休み?」
「そうそう。じゃあさあ、出会った記念に今度一緒にディスコいきませんか?」
ワンレンとレイヤ―の子は戸惑っていたが、ショートは「いつう?」と乗ってきた。
「今日でも、明日でも、いつでも」
「明日からはしばらく無理かも。あさって皇太子が来るとかで警備が厳しいらしいよ」
「じゃあ、今晩はどう。夜8時? 竹園のエクセルで!」
「遅れるかもしれないから先に入ってて」
「じゃあ、今晩」
「お前たち、ありがたいと思え」
上島は他学部に入ってから医学に再入学したので年上だ。
「先輩、ありがとうございます」
「こんな時だけ言うな!」
「僕は、今晩は止めておくよ。雪になりそうだし」
大窪は寮には住んでおらず、筑波山の麓の実家から車で通勤していた。
「まじめすぎるぞ」
「じゃあ、後で」
夜、ディスコの前には行列。道路わきに自転車を停めて列に並んだ。寒かった。
ロングコートの黒服の直前まで来たら「いやー待たせた」と上島が現れた。
リラックスがかかっていた。
フロアは学生、万博、それに新しくできたデパート、からあふれ出た新住民を吸い込んで一杯だった。フロアの端っこで少し踊ってからバーの列に並んだ。
「こんばんはー」
「あ、森田さん、そっちも試験は終わったの?」
「偶然だね」
森田さんは、英語の事業で一緒だった子だ。授業の時の静かな子、と思ったら今日は印象が違った。今日は白の膝丈のワンピにミラーボールの反射が光った。
医学の学生も教養科目は、他の学群と一緒に受けていた。きれいな発音が印象に残っていた。
「今日は誰と?」
「サークルのみんなと」
「何のサークル?」
「社交ダンス」
「へー」
「カンパリオレンジ、森田さんは?」
「ジンジャーエール」
大音響で二人とも大声になった。
「実家に帰らないの?」
「西武デパートでアルバイトするの、だから、すこししか帰らないつもり」
「O君は残るの?」
「試験の結果待ち。追試あるかもしれないし」
ひょっとしてチャンスかもしれない。
「暇な時間があるんだったらご飯でもたべにいこうよ」
「いいの?私で?」
「僕は22号棟214号室、バレンタインデー」
「え?なに?」
「214号室」
「なるほど、私は1号棟314」
「マシュマロデー!」
「なにそれ」
「チョコのお返しに男がマシュマロを返す日」
「あー、そんなのあるんだ」
「昨日だね」
「でも一番端っこの寮だね、お互いに」
「そうだね、5キロぐらいかな」
「もっとあるんじゃない」
森田さんがジンジャーエールを受け取ると曲は99ルフトバロンに変わり、サークルの仲間の所に戻っていった。
短いスカートの女の子が3人来た。
「はろー、まだ名前言ってなかったね。私ケイコ、こっちがマユミとマナミ」
六本木から来たみたいだった。
レッツグルーヴがかかった。
上島と僕と女の子3人でしばらく踊った。
コンパニオン3人組はとても目立っていた。まわりに男たちが寄ってきて、いつの間にかフロアの真ん中にいた。
ショートヘアのケイコと一緒にバーに並んだ。ホットスタッフがかかっていた。
「ねえ、どうしてUCCコーヒーが科学万博なの」
「科学と自然の力の調和よー。そんな説明を何度も覚えさせられたわ」
ケイコは楽しそうに踊った。一緒に踊り続けた。
メリージェーンがかかった。もうすぐお開きだ。森田さんはサークルの友達か先輩と踊っていた。社交ダンス部のせいか、チークダンスがさまになっていた。
ケイコと目があった。
「私チーク下手なの」
「僕も」
二人は体をくっつけて音楽に合わせて体を揺らしていた。
「ねえ、こんど遊びに行っていい?」耳元で囁かれた。
「いいけど、場所わかる?筑波大の一番南側の宿舎。22号棟の214。バレンタインデー」
「覚えやすいわ」
「あは、昨日はマシュマロデー、知ってた?」
「何それ」
「男の子が女の子にチョコのお返しをする日」
「そんなん、もらったことないわ」
「彼女さんとかいるの」
「いません」
「私どう?」
上島はいつの間にかワンレンのマナミといなくなった。
「今日は帰るね」
マユミと一緒にタクシーに乗って帰っていった。
寮まで自転車を走らせた。降り始めた雪が顔に当たって痛かった。
一つの試験に落ちた。
図書館で過去問の見直しをした。
夕方寮に帰るとドアのノック。
「ご飯食べにいこうよー」
ケイコだった。
「ごめーん、行きたいんだけどさ、あさって追試なんだ」
「じゃあ、コンビニで何か買って食べよう」
出来たばかりの近くのコンビニでおにぎりや弁当を買った。ケイコはビールや缶チューハイ、おつまみまで籠にいれた。
「今日は飲みたいの」
6畳も無い狭い部屋には勉強机、そしてベッドと本棚レコードプレーヤー、トースター、湯沸かし器ぐらいしかない。
ケイコをベッドに座らせた。
「なんの勉強?」
「解剖」
「それ何語?」
「ラテン語」
「医学部って、女の体詳しそう」
勘違いされているようだ。僕はまだ童貞だった。
そのうちお酒を飲み始めたケイコはいつの間にかもたれかかってきた。
キスをした。
僕は服の上からケイコの体を触りながら、
「オス・コクサエ」
「何それ」
「骨盤の骨」
「ネルブス・イリオ・イングイナーレス」
骨盤の上をなでるように神経に沿って触ってみた。
ケイコはくすぐったがりながら
「寝るブス?」
「神経のことをラテン語でネルブス」
「私のことかと思った」
「この神経があそこまでいくんだよ」
神経の先の方に手を伸ばした。
僕はいつの間にか童貞を失っていた。
ケイコとまどろんでいると、ドアをノックする音。
森田さんが立っていた。
中からケイコが
「だれえ?」
「ごはん作ったんだけど、もう……彼女、いたんだ」
僕の顔をにらみつけると廊下を走っていってしまった。
「だあれ?ひょっとして彼女さん?」
「いや、彼女ではない」
「このーもて男」
「そんなんじゃないってば」
「やっぱり君は、大学の子とつきあいなさい」
ケイコはさっさと服を着て帰っていった。
僕は19歳になったばかりだった。