今泉力哉と玉田企画『街の下で』
今年の7月、池袋シネマ・ロサで行われた若手監督二人(河内彰・松本剛)の作品上映会に行った。上映期間は毎晩異なるゲストを招いたアフタートークがあり、僕は今泉力哉監督が登壇する日を選んだ。
「映画を見終わると、今泉作品の中にいる感覚で映画館を出るんですが、監督の時間感覚も作品のような感じですか?」
「中にいる人の、これは面白いでしょって感じが伝わるモノは笑えなくて、登場人物が真剣な方が笑える。リアリティみたいな芝居が絶対とは思わないけど、人が困っているときや傷ついているときの方が面白くなる。
映画を見た後に、作品が観客と地続きになるには、主人公の悩みを解決しないでおけばいい。そうすると、見た人が主人公の周りの一人でいられる。想像の余地を残しておくことは意識して書いてます」
「今泉映画は、分かりやすい脚本なのに、画で遊ぶから分からなくなることがありますけど」
「自分の作品は比較的言葉が主導になるけど、それだと動きが足りなくなるから、脚本は分かりやすく作って、その分映像で遊んでみる。人を動かして失敗したから、台詞ありきで動きを少なくして、フィクション演出を足したらすごく映えた。人を動かせないのが自分の課題」
2014年公開『サッドティー』で、ソファに腰かけた男女三人の場面を思い出す。女性が一人の男への好意をぶつけ始めると、もう一人の男がその場にいる気まずさやいたたまれなさが漂い始める。すると、男が幽霊のように段々と薄くなり、背景に溶け、消える。そんな映像加工の演出があった。真剣な会話劇の中で突然起きる事態はあまりにトリッキーで、悲しくも可笑しかった。
僕のメモには「実時間が流れていく不穏さ、緊張感」という走り書きもある。これが今泉監督の言葉かは思い出せないが。
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“今泉力哉と玉田企画”『街の下で』を観に行った。
正直良く分からない。離婚話の持ちあがる夫婦、別れ話が切り出される高校生カップル、それを取り巻く友人や家族。会話の間をしっかり取った口語劇だ。舞台を三か所に区分したシーン転換も映画的に思える。
後半過ぎに“ある仕掛け”が作動するまでは、どこかの街の下に必ず存在する人々の関係性を描く群像劇なのだが、僕はそれだけでも釘付けだった。中でも、高校生の弟とその姉の会話に悲鳴を上げそうになって、このシーンだけで今日これを見に来てよかったと思った。
元カレたちと友人関係に戻りがちな姉に、自分も今の彼女をフってそんな関係になりたいと相談する弟。
「わかんないけど、自分は恋人がいるときも、誰にも愛されてなかったからじゃないかな」と自分の恋愛を振り返ったうえで
「最低だね。フラれた後の関係性くらいは相手に選ばせてあげなよ」
と突き返す姉。
「・・・・あと、もう一ついい?泣かれたらどうしよう。泣くじゃん、女って」
「・・・・泣き返したら?」
キャッチボールをしながら、という姉弟の関係性を見せたうえで、話の流れと会話のリズムが歪んでいく様子が痛々しい。
僕は玉田企画の作品を見たことがないのだが、ヒコさんのブログ(『青春ゾンビ』)を参考にすると、
・あるある的なリアリズムを積み重ねる現象の再現
・それを神の視点で見つめる観客が登場人物の思惑を把握できる面白さ
・それによって成立する、不親切ともいえるデフォルメしない“笑い”
などの感想が。このキャッチボールのシーンが、もしかしたら両者共通の世界観なのかもしれない。客席には笑いも起きていたが、姉弟の想像力にすれ違いが見える切なさが勝った。
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分からなくなるのは後半。芝居の途中でカットがかかり、場面が稽古場に変化する“仕掛け”が発動すると、映画的に思えたセットが一つの舞台空間に変わる。それでも、前半の伏線回収や、後半開始時に設定される目標といった『カメラを止めるな!』『ラヂオの時間』は始まらない。物語には実時間が流れ始める。見えてこない筋、登場人物の感情の波、ジワジワ進み続ける時間感覚。全てを掛け合わせた“不穏さ”が客席に圧をかけていく。
そして突然、アルコ&ピースの『巻き物』を彷彿とさせる転調が訪れ、最後にもう一つの“仕掛け”が発動するのだ。群像劇に主人公が設定される機能を持つ、ベタ中のベタなオチをつけて物語は終わる。
確かに、離婚を切り出された男が病室で泣いているシーンから物語は始まっていた。現実の登場人物の悩みは1つの解決を迎えるのだ。しかし、今泉監督の話していた、リアリティの演出でいうならば、誰一人解決できない欲望を抱えたままの、夢の中にある『街の下で』の方が観客にとっては日常世界の延長にある。
この作品は、シーンを区切っていく映像的な時間感覚が現実世界の実時間に転換することで、見る側に負荷がかかるのだと思う。ネットで散見する感想には"仕掛け”への意見が多いが、根底には時差による「耳キーン」現象があるのではないだろうか。
帰り道に『ピンクとグレー』という映画を思い出した。これも、ある構造的なネタバレ以降、物語を俯瞰するカメラが主人公視点に切り替わり、二人の人物を演じる役者が入れ替わる仕掛けがある。『街の下で』を映像にするとしたら、演出家のカットがかかった場面以降、役者として参加していた主人公が演出家に変身していたかもしれない。
生の芝居のどこにカメラを置くか、どこまでの転調が許容されるかを考える、余韻がのこった。インタビューで「こんがらがったまま完成した」と語っていた通りだと思う。これまでに玉田企画作品を見ていないことを悔やむ。
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長くなってしまった。
最後に役者陣を絶賛したい。皆が二人以上の役を演じなければいけない“仕掛け”を成立させた素晴らしいメンバーだった。
特に、長井短のコメディエンヌとしての才能が輝いていた。後半に入って時間がジワジワ進む展開の中、客席を舞台に注視させ続けたのは彼女の存在感だ。テニスコーツのコントで見たときなんで気付けなかったのだろう。(根本宗子とのラジオは二回くらいで辞めちゃったけど、今度特番で復活する際は必ず聞きます。夫のロロ亀島さんとnoteで行っている交換日記も面白い)
高校生カップルを演じた志田彩良と青木柚は発見だった。志田彩良は『パンとバスと二度目のハツコイ』『mellow』など今泉作品の出演が多い。今後絶対売れる。
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