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コンプソンズ 『何を見ても何かを思い出すと思う』

「下北沢で向井秀徳が路上ライブしてる!!」
同時多発的にアップされたツイートで知った当時の僕や友人にとって、それは明らかに"事件"だった。
僕は見られなかった。下北沢を歩くたび、その後悔を思い出す日々もあったけど、今じゃもうそんなことはない。
でも例えば、友達がカラオケで「CHE.R.RY」を入れて、あの節でイントロを夢中で歌い始めるのを見たりすると、まずカラオケの難しさを感じて、次に自分も何か公約数的なものを出すべき場にいて、でも、あの日の路上にはいなかったこととかを、なんとなく思い出したりする。


コンプソンズ 『何を見ても何かを思い出すと思う』

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目覚めると2021年から2016年にタイムスリップしていることに気付いた男。所属しつつも疎遠になっていた劇団の面々と出会い、現状を認識していた束の間、一緒に16年に来たはずの(おそらく自分の恋人であろう)女はさらなる過去で元恋人との日常を送り始める。
16年にいながら、自分だけがその過去も同時に見えていることに気づいた男は、徐々に混乱しながら、自分や他人の過去に巻き込まれていく。


下北沢と所縁のある人物たちの2013年から2019年末までの過去が舞台上で同時多発的に進行するうちに、時間軸は往復し、混ざり合い、やがて観客を含む全員が主観と客観、過去と現在、虚構と現実を見極めるのが困難になっていく。

「じゃあ、来年別れるんだっけ?」
「え・・ていうか私がフられるんだよ」
「向井秀徳の路上ライブは、今日これから起きる出来事じゃん」
「え?なんで今日これから起こることが懐かしいの?」

過去が新たな現実として”再現”される舞台は、時間と記憶の不可逆な関係さえ逸脱していくのだけど、複雑な脚本だからといって、観客に最も安全な視点を考えさせるような、そんな小難しい芝居ではない。

むしろ、理解を未然に防ごうとしているようにも思えくる。
「夢みたいだね」とメタ的に突っ込む者が現れると「夢オチなのこれ?夢オチの芝居なんか出ちゃダメよ」と口が挟まれるし、ゲームマスターの夢に閉じ込められている仮設が現れると、それは瞬く間にB級ホラー映画の撮影現場へスリップするのだ。


そして、芝居の輪郭を描き、駆動させるもう一つの特色は、連発されるサブカルチャーと、それらへの視線と偏見。
閃光ライオット、平賀さちえが働いていたカレー屋、モナレコード、百万円と苦虫女、山﨑ナオコーラ、藤田貴大が岸田戯曲賞を受賞し松尾ナオキが大人計画を立ち上げた26歳という年齢、カラオケで今夜はブギーバックを歌う20代、七尾旅人サーカスナイトをカバーした面々・・・

「え、どこですかここ」
「下北ですけど?」

から始まる芝居と思えば、そこに居る人たちによる会話のスケッチとして小気味いい。
”「なんかやりましょうよ!」って盛り上がるけどそのあと連絡を取ることはない、謎の飲む流れが生んだ、よくわからない飲み会”のようなピースだ。

ただ『何を見ても何かを思い出すと思う』には、その瞬間を逃したら二度と思い出せなかったかもしれない存在たちが大挙する。
ツタヤでたまたま借りたB級映画、偶然入ったコンビニでバイトしていた同級生、元恋人が買ってきてくれたパン。
サブカルチャーは、そんな存在との過去を縁取る装置的な役割を果たすから、作品の物語性と遠いところにあるわけではない。

必ずしもそうとは限らないのだけど。
何かの映画で「クロノスタシス」をいじられるよりも、カラオケで「琥珀色の街、上海蟹の朝」を歌う奴を切り捨てていくセリフの切れ味の方が余程キた。


時間軸やメタ表現を駆け回る脚本と、ポンポン放たれる固有名詞によって舞台上で組みあがったのはなんだったのか、今もバラバラと断片を思い出しては考える。

人生に二度とないかもしれない瞬間の数々は誰にでもあって、現在だけが自分のすべてなわけがないだろうと説き伏せてくるような熱量も感じるし、ごった煮で何が悪いと、それらを無理やり物語に仕上げる強欲さを浴びせられた気もする。

だけど、隔離されているかのような2020、21年の観客を残して迎えた結末は、完璧だった。
劇場へ足を運んだ観客を終演後は家に帰す。生の(しかし、コロナがまず初めに奪った)エンタメが当然に持つ性質を、こんなに綺麗に仕上げる方法は他にない。

10周年節目の作品として(さらに1年延期したうえで)上演された本作が自分にとって初めてのコンプソンズで、強烈で最高だった。

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『何を見ても何かを思い出すと思う』は、運命的に思い出すシーンを見事につないだ一方、思い出すのは実現されたことにとどまらない、ということも描いた。
それが、向井秀徳の下北沢路上ライブであり、この瞬間に立ち会えなかった後悔を抱える人物が迎えたのは、本作でいくつか描かれた未来に対する希望の一つ。

自分にとって観劇は、自分事と接続することからは避けられない。
観劇した数日後、渋谷OEASTで向井秀徳のワンマンライブを見た。椅子が並んだ会場は静かな興奮で包まれていて、後ろに座るお客さんは終始すすり泣いていた。それだけ素晴らしいライブだったし、舞台上で飲酒をしない向井を見るのも初めてだった。そんななかサプライズで演奏されたカバー曲は、どうしてもこの芝居とつながって思えて、この曲を聴くだけできっと、何年たっても『何を見ても何かを思い出すと思う』を思い出すと思う。


オケタニ(@oketani2772)


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