雉に連れられ社会の外へ
連休明けの憂鬱に、どうにも著者 (哲学者:ドゥルーズ=ガタリ) と距離を感じてしまう書物から離れ、大学の裏山へと出向いた。
十日間もご無沙汰にすれば、この時期の森にとって、桜が散ってゆく悲しみを克服するのには十分すぎるようだった。
対人での陽気な会話は些か億劫で、書物に腰を据えて故人と面するには、思考の深みが足りないような気分の私にとって、緑しかない世界は居心地がよかった。
なんとも拍子抜けしたような、ゆらゆらと、どこにも落ち着かない私を、初夏の空気は歓迎してくれた。
まるで心の中を写したように、雑多で手入れをされていない植物達が、好き放題に生命力を芽吹かせていながら、全体としてのまとまりはない感じだった。
その乱暴な落ち着かなさが、かえって私に安らぎを与えてくれた。かろうじて残された路に沿って、森を廻る。行く先を枝葉が覆ってしまっているので、道に迷わされた気分だ。
50m程の、樹々で型どったトンネルを抜け、いつもの中継地点に辿り着く。そこには、木製のテラスが構えている。
ベンチに腰をかけて、トーンを落としてじっくりと我を省みる。さて、どのようにしてこの微睡みから抜け出そうか。
気が向かないものと、無理して向き合っても得られるものは割りに合わない。とはいえ、いつ戻ってくるかわからない好奇心に不安が募る。
早く抜け出したいと思っていながら、どうやら今は待つしかないようだ。憂鬱を散歩するなら、連れはボードレール(19世紀フランスの詩人)がいいだろう。
この、憂鬱な時間は望んで手に入れられる類のものではなく、落し物のように、ふと訪れる貴重な時間なのだ。
五月の風が怠惰に泳いで行くのを見つめ、大地から発せられる水分の匂いを嗅ぎ、小鳥の溜め息に耳を貸しながら、時を感じていた。
しばらくして、どうやら今日も倦怠から脱出する糸口が見つからない事を悟り、森を出ようと立ち上がる。
テラスを出て、ここへ来た道を引き返そうと、緑のトンネルへ足を踏み入れた瞬間、鳥や小動物にしては巨躯で、猪や鹿にしては目線の低い生物が目の前を横切る。
それは、顔が赤く、孔雀にも似た鮮やかな紺碧を胴に備え、鋭利な尾を振りかざす、一羽の雉であった。
勇ましい目つきで私を睨むと、威嚇というよりは軽蔑の嘲りに近い金切り声を挙げ、力強い足踏みで私の目の前を横断した。
私の中の本能が叫んだ。
反射的に彼の足跡を追い、羽織りのまま森へと飛び込んだ。ガサガサと揺れる草木の先頭を雉が翔ける。私は、かろうじて深緑の影を捉え、鈍った足を駆動させる。
気づくと森の中心部にやってきていた。私の感覚帯は神妙な程に研ぎ澄まされていた。少しの物音も逃さず、僅かな草木の揺らめきも察知し、雉が動いた瞬間には、私の体も自動追尾していた。
アドレナリンが溢れ出ていた為、体の重さは忘れていた。しばらくすると、雉はどうやら駆け回るのを辞め、身を潜めたようだった。私は、最後の足跡があった方向へと、第六感覚を頼りに間合いを詰める。
銃や飛び道具を持っているわけではない私が接近したところで、雉の身柄を確保できる訳ではない。そこで私は、ポケットからスマホを取り出して、どうにか奴の姿を写真に捉えてやろうと考えた。
私が意識をスマホに向けた瞬間、奴は一目散に私から離れ、森を突き抜けると同時に、翼を広げて飛び去っていった。
私は遅れて森を抜け、羨望の眼差しで奴を見送った。
森を抜けた先は、よく整備された芝生になっていて、どっとした疲れに襲われた私は、息切れをしながら大の字に横たわった。
今まで森の陰惨な雰囲気に浸かっていたので、見上げた空が快晴だったという事に驚いた。
さらに、森の空気はジメジメしていたのに対して、芝生のカラッとした空気が気持ちよく、清々しい気持ちになった。
好奇心をもたらした”奴”は、代わりに倦怠の精霊を連れ去ってくれたようだった。
* * *
どうやら、全身エネルギー体としての感覚を持つ事は、人間社会では「規制」されているらしい。何故なら、平和や愛にとって、それほど危険なものはないからだ。
しかしどうだろうか。先ほどの鬱憤や憂鬱は、私たちの「野生」を飼い殺したために発症した病気ではないか。そう思うと、”奴”との決闘はただのお遊びではなかった。
むしろお遊びなのは、この人間社会の方だ。
大地に寝転んだ私は、我々「人間」が、動物園の中にいるような気がしたのだ。
危険な欲望の牙を抜かれ、退屈と飽きを対価にエサを与えられた、安心で平和だが、そこに”生命”があるかと言われれば吃ってしまう、そんな社会。
強調して言うが、「この動物園の檻を破壊せよ」という過激な発想をしているのではない。
安心や平和の動物園は、人間の高尚な知性が編み出した素晴らしきシステムだ。
ただ、我々は動物園の中でムキになりすぎている。
この園内に、「野生」の所在があるか?と問われればNOだ。根絶されている。拒否されている。規制されている。低俗とされている。あるのは、お金を払って体験できる”商品”や”ゲーム”に過ぎない。偽の野生だ。
問題なのは、動物園の中にいる事ではない。
問題なのは、園内にいることを忘れて殺しあう事、そして野生の欠如だ。
無法地帯を開拓し、安心安全の保証なき野生へ、商品化されない人間社会・外が必要なのだ。
* * *
見事に倦怠と憂鬱を洗い流した私は、帰路へ立ち、その日を終える。好奇心を取り戻した私の目は、僅かに正気を取り戻したようだった。
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