妄想、そして逃走
GWの10連休も折り返しとなってきた。
ちょうど気温が高まり、春というよりは初夏を感じる。
長めの休暇を与えられた市民は、羽根を伸ばすというより、ある種の戸惑いがざわめく。
一方、中世のヨーロッパでは、貴族にとってこの連休は日常である。
彼らは、誇り高き文化の中に使命を見出し、小鳥が囀る初夏の朝に心を踊らせていた事だろう。
現代に、そのような文化的素養があるだろうか。
休暇と言えど、仕事や勉強のために、心を解放する事を許さない。
ある人たちは、労働の鬱憤に対する愚痴をこぼす。
余裕がないのはお互い様なようで。
私たちが、心を解放する事を良しとしないのは何故であるか。
いっそ、丘の上で、”私”の不安から逃げるためではなく、自然と同じ目線に潜めたなら。
風の遮蔽物として、日差しの受容体として、小鳥の歌の蓄音機として、重力の奴隷として、初夏の一部分としてのみ存在できたなら。
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