限定的な愛
愛は、大きく分けて自己愛と他者愛がある。
名義上、2つに分けているが、両者の境界線を厳密に引くことはできない。
これは、「自己」と「他者」は互いに干渉し合い、私は貴方の一部分となっているし、反対に、貴方も私の一部分となっている。という命題に近い。
しかし、やはり「私」と「貴方」には明確な差異があることは認める必要がある。
以上の事を踏まえると、自己愛は他者愛にもなりうる。
ただ、究極的な個としての自分に向けた愛(エゴイズム)と人類や社会内においての自己愛は区別されるべきだろう。
反対に、滅私奉公的な愛(犠牲の愛)と自分の一部分となっている者への愛もまた区別されるべきだ。
さて、愛について御託を述べたのは次の目的があっての事だ。
「暇な現実が嫌で、誰かの役に立とうとする(誰かへ愛を向ける)人々は信用できるか。」という問いだ。
私の見解では、批判せざるを得ない人々である。
彼らの動機の本質は「誰かの役に立つことで、自分の存在意義を認めさせる」という究極的な個への愛(エゴイズム)であるからだ。
偽善的なエゴイストは、おそらく「愛を向ける誰か」が悪魔であっても、目の前で喜ぶ人がいる限り、喜んで加担するのではないかと不安になるのだ。
それに比べ、「誰か」の役に立たなくとも、単純に自分が好きで好きでたまらない事だけをやっているような人の方が信頼できるし、尊敬もできる。
人の愛にはそれぞれ絶対値(限界値)があり、限られた量の愛を様々な方向に配分されている。
必要以上に関わるもの全てに愛を配分するということは、たった1つの自己愛へと帰着する。
大きな愛に見えて、小さな個を満たすための振る舞いにすぎないのだ。
私達が持つのは、限定的な愛で十分なのだ。
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