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失敗まみれだった自分自身に

この文章は、パナソニックがnoteで開催する「 #あの失敗があったから 」コンテストの参考作品として主催者の依頼により書いたものです。


「失敗」という「事実」は、この世にひとつとして存在しないと思う。なぜなら失敗とは、「解釈」であるからだ。

たとえば就職活動で、一番行きたかった会社の面接に落ちたとする。

この「面接に落ちた」という事実を、失敗だと捉える人もいれば、それが運命だったと、すんなり受け入れる人もいる。落ちた結果、幸せな毎日を過ごすことができ、面接に落ちたことをむしろ「成功」だと捉える人だっているだろう。最初は失敗だと思っていたのに、数年後に振り返ってみればその考えがオセロのようにひっくり返り、「やっぱり成功だった」と思えるようになることだってあると思う。

このように、失敗とは、ただただ「とある事実の捉え方」を指す言葉であって、失敗という事実は、存在しないのだ(と、思う)。

失敗とは、解釈である。

その前提を置いた上で、数年前まで私は、「失敗まみれ」の人生を送ってきた。

本題に入る前にもうひとつだけ、失敗について、私が思うことを書いておきたい。

私の中で、「失敗」と「挫折」は、少しばかり違う意味合いを持っている。同じく、「失敗」と「ミス」も、似ているようでいて少し違う。

「挫折」とは、万全に準備して自信もあったのに、予期せぬできごとが原因で、うまくいくはずだったものがうまくいかなくなってしまった時に使う言葉だと思っている。

たとえばそれは、スポーツの大会に向けて必死に練習してきたにも関わらず大会直前で足を故障してしまうだとか、受験勉強で、ちゃんと準備をして自信があったのにも関わらず熱を出して落ちてしまう、だとか。

挫折という言葉には、自分自身に対する自信や信頼が、前提として含まれている(だからこそ、挫折した時に立ち直るのは難しいとも言える)。

一方で「ミス」とは、純粋な「間違い」の事実を指す言葉である。たとえばそれは、計算の答えを間違うだとか、バイト先で発注量を間違う、だとか。

ミスとは解釈ではなく事実であり、その言葉自体は、感情で彩られてはいない。

では、失敗とは、果たして一体何なのだろうか?

そう考えた時、私の中で失敗とは、「後悔」という感情に彩られているものだな、と、思った。

私が失敗したな、と思う時には、そこに必ず、自分自身への後悔の念がある。挫折が自分自身への「自信」があるからこそ生まれるものであるならば、失敗は、自分自身に対して「自信」がないからこそ起きる、「予想ができたはずのもの」なのだ。

私は幼い頃から常に、自分自身の行動や選択に対して、「失敗」という感覚がつきまとっていた。その感覚を抱き出したのは、小学生になった頃からだ。

いつも、どこかで、「失敗してしまった」と思っていた。クラスでキャラに似合わず雰囲気を盛り上げようと発言して空気をシーンとさせてしまった時も、中学生の頃、所属していたバドミントン部で性格に似合わずキャプテンを引き受けてしまった時も、高校生の頃、集団競技が苦手なことはわかっていたはずなのにラクロス部に入部してしまった時も、大学時代、自分に向いていないとわかっていたはずなのに、効率重視の飲食店でアルバイトを始めてしまった時も。

何かを始める時に、私は違和感を感じることが多かった。「なんだか違うかも」と思うことが多かった。なのにも関わらず、そんな自分の違和感よりも先に、「周囲にどう見られるか」「どうすれば周囲に嫌われないか」を優先して生きていた。その結果、やっぱり心の中の違和感は消えてくれず、最終的に、自分の行動や選択に対して思い続けてきたのだ。

「また失敗だった」。

そんな気持ちだけが、どんどん心に蓄積されていく。

大学生になった頃からは、自分の選択に対して「失敗した」と思うことはもはや当たり前になっていて、それなのに私は、選択の仕方や行動を変えるのではなく、それを「うまくリカバリーする能力」に長けていった。

失敗することは当たり前。後悔することは当たり前。それを、どうやってうまく「ごまかす」のか。自分の感情に、どう蓋をして生きていくのか。鬱血した傷口を綺麗な絆創膏で閉じるように、そんな応急処置ばかりに注力するようになってしまったのだ。

幸か不幸か、私は、要領がよかった。自分の気持ちをごまかし、「うまくいっているように見せる」ことができた。周囲からは、「ゆかちゃんは、うまく生きている」と言われるようになった。私はそれがうれしかったし、事実、そんな自分の人生が幸せに思える瞬間はたしかにあって、「自分の人生、案外うまくいっているのでは?」と思う瞬間が増えていった。

けれど、そんな中でも「私の人生は、いつも失敗している」という後悔の念は常につきまとっていて、決して消えてはくれなかった。

なんとかなっていることは、いつか、なんとかなくなる時がくる。

まるでテトリスがゲームオーバーする時のように、少しずつ積み重なったズレが画面いっぱいに広がって、ガラガラガラと崩れ落ちていったのが、26歳の時だった。

本当に、ガラガラガラと音を立てて、今まで積み上げてきた自分の生き方が、崩れ落ちていくことがわかった。涙が止まらなくなって、会社に行けなくなった。自分自身のことが大嫌いになった。周りの人のことを愛せなくなった。周囲にいる、純粋に生きている人のことが、憎くて憎くて、羨ましくて仕方なかった。正直なところ、26歳から1年半くらいにかけての私の精神状態は、ちょっと周りが心配するほどに、グラグラと揺らいでいた。

私は26年間かけてゲームオーバーしたテトリスを、またいちから積み上げなければいけなかった。そしてその積み上げ方は、今までとは同じではいけなかった。新しいルールを、自分が幸せに生きられる環境を、ちゃんと、自分で再構築してあげる必要があった。

私は「自分の失敗をリカバリーする方法」ではなく、「自分自身の行動や選択自体を、失敗だと捉えずに生きる方法」を、身に付けなくてはいけなかったのだ。

それからの私は、ベタではあるが、今までの人生で起きたできごとを、ひとつひとつノートに書き出していった。私は今まで一体、どんな違和感と向き合うことと避けてきたのか。何に対して失敗だと思っていて、何に対して後悔していたのか。何がしんどかったのか。

驚くほどたくさんの言葉が、スラスラと出てきた。

私は人を大切にすることができていなかったし、自分を大切にすることも知らなかった。周囲の期待に答えることばかり大切にしてきて、自分自身の気持ちと向き合うことをしてこなかった。

それから少しずつ自分と向き合っていたつもりだったけれど、そう簡単に変わることができるはずもなく、そんなジレンマの中で、大切な人との別れも経験した。会社も思い切ってえいやとやめた。一層私は、自分と向き合わざるをえなくなった。

26歳からの1年半は、私が人生の中で確実に最も苦しかった時間であり、でも、私が人生の中で確実に最も、自分自身をちゃんと受け止めた時間だった。

いつ頃かは具体的には覚えていないけれど、そんな日々が続いてちょうど2年ほどが経った頃からだろうか。私は、自分自身の行動や選択の一切を、「失敗」だと思わなくなっている自分がいることに気づいた。持久力がついていることをある日突然気づく時のように、本当に、突然のことだった。

岡山で本屋を作っていく過程や、新しい友達やパートナーとの出会いの中で、愛を受け取り、与え、きっと少しずつ変わっていったのだと思う。

自分を変えたいと思う時、何かを「つくる」ことはとても有効だ。

「学んだことでつくる」のではなく、「つくりながら学んでいく」ことを目的とするクリエイティブ・ラーニングという学問があるけれど、私は数年前にその学問に少しだけ触れる機会があって、その中で、下記のような言葉に出会った。

本屋をつくるという行為は、私が人生ではじめて、「違和感」がまったくない状態で始められたことだった。そして、その本屋を「つくる」という過程が、きっと私に大きな変化を与えてくれたんだろうな、と、結果論ではあるのだけれど、今振り返ってみるとそう思う。

数年前まで私は、「失敗まみれ」の人生を送ってきた。自分の行動や選択を、「失敗だった」と後悔してしまうような人生を送っていた。それはとても悲しく虚しく、自分の人生が、なんだかごまかしてできているハリボテのもののように思えていた。

でも、もう、自分の違和感を見逃したまま、生きていくことはしたくない。

もちろん急に純度100%は無理だと思うけれど、少しずつ、少しずつ。そしてきっと、私はもう大丈夫だろうという自信がある。今、私の周りには大切な人たちがいて、今、私は自分のことも、とても大切に思えているからだ。

失敗まみれだった、自分自身に。

挫折はあるかもしれないけれど、ミスもたくさんあると思うけれど。もう、自分の選択を失敗だとは思わなくて大丈夫だよ、と、伝えたい。

あの頃の私があったから今の自分がいると思うと、失敗まみれだと思っていたあの頃の自分だって、ほら。今では結果的にすべて「失敗」ではなかった、と思えている自分がちゃんといるのだから。


カバー写真:田野英知

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。