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本は「大鍋のスープ」か「フルコース料理」か

「本の読み方」については、いろんな人がいろんな哲学をいろんな場所で展開していて、それを知ることはとてもおもしろいなあ、と、思う。

たとえば、同じ本を何度も何度もくりかえし読むだとか、逆に、読んだ本はもう2度と読まないと決めているだとか、1冊をきっちり読み終えるまで次の本は読まないだとか、同時に何冊も並行して読むだとか。

それはきっと自分なりに明確な理由があってそうしている人もいるだろうし、なんとなく始めた習慣が身に染みこんでいるだけの人もいるのだと思う。いずれにせよ、どんな人のどんなポリシーも否定したいと思ったことは一度もなく、ただただ「おもしろいな」と思う。


私は、というと、いつも10冊ほど並行して本を読む。通勤リュックには、必ず2冊以上は本を入れておく。本屋に行ったら、必ず1冊は本を買う。本は一度買うと捨てられない。そして、本は、買ってもすべては読まなくてもいいと思っている。

最後の「本はすべて読まなくてもいい」という考えは、自分の中でごくごく自然に、当たり前にできた考えだった。

けれどどこかでぼんやりと、「本はすべて読まなくてもいい」と思っている自分自身に対して、なんでそう思うんだろう? という問いが、ずっとあったような気がする。


2月に、渋谷のSPBSで開催された、歌人の穂村弘さんと夏葉社の島田潤一郎さんのトークイベントに行ったのだけれど、そこで穂村さんが言っていた言葉の中に、すごく印象的なものがあった(うろ覚えなので正確ではありません)。

本のことを、「大鍋のスープ」として捉える人と、「フルコース料理」として捉える人がいるじゃないですか。

スープってどこを飲んでも濃さや美味しさは均一なので、全部飲まなくても、一口飲んでおいしかったらそれで満足しちゃうこともあるんですよ。

だから本を「大鍋のスープ」として捉える人は、ちょっとしか読んでいなくても、ものすごく自分に響くフレーズやエピソードに出会うことができたら、それで満足しちゃうことがある。こういう人は、全部読まなくてもいいんです。

一方で、フルコース料理はメインまで全部味わうことに意味がある。だから、本を「フルコース料理」としてとらえる人は、すべてじっくり味わいたいと思うんです。

ちなみに、穂村さんは「大鍋のスープ」派で、島田さんは「フルコース料理」派だとのこと。この言葉を聞いたとき、私はきっと、本を「大鍋のスープ」としてとらえているのだな、と、思った。


以前、「強烈に残るワンシーンがあるということ。」というnoteにも書いたことがあるけれど、私は、本や映画やその他さまざまなコンテンツは、「何か強烈に伝えたい一文や一節のために」作られているものが多いのかな、と思っている。

だから私は、誰かが何かのために強烈に伝えたいと思ったその一文や一節、思いに出会いたくて本を読む。それはつまり、自分にとって魅力的だと思った「大鍋のスープ」を飲んでみて、そのおいしさのもとがなんなのかを知りたい、ということだ。

その結果、大鍋のスープを全部飲み干したくなることも、一口で満足することもあるけれど、きっとそのスープを「味わう」ということこそに意味があるのであって、すべてを飲み干すかどうかは結果論なのだ。本をすべて読み切ることが必ずしもその本の良さをわかるために必要なことだとは思わない理由は──きっと、ここにあったのだ。

世の中は魅力的なスープであふれていて、これからも、たくさんたくさんいろんな味を知っていきたいと思う、水曜日の夜なのでした。


ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。