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12月12日 肩書などない方が良い。少なくとも死後は。

12月12日ですね。

盛岡では原敬氏についてはそこまで深く親しみませんでした。
先人記念館の近くに原敬生家跡と記念館がありましたが、徒歩では少し歩きそうだったので行きませんでした。


ところが、米内光政氏の墓を詣でた後、近くに原敬氏の墓があるのを知り、立ち寄ってみたことで急にご縁がつながりました。

原敬氏の墓の前には案内板が置かれていました。そこに書かれていた文書を読んで原敬氏にも興味を持ちました。平民宰相として知られる原敬氏もまた盛岡が産んだ偉人です。

東京駅頭で暗殺された原敬氏は、その死の八ヶ月半前、死を予感したように遺書を残していたそうです。

案内板には遺書の一部が掲載されていました。
一、死去の際位階勲等の陛叙は余の絶対に好まざる所なれば死去せば即刻発表すべし
一、東京にては何等の式を営むに及ばず、遺骸は盛岡に送りて大慈寺に埋葬すべし
一、墓石の表面には余の姓名の外戒名は勿論位階勲等も記すに及ばず

感銘を受けました。

先日も森鴎外記念館で森鴎外氏の遺書を読み、感銘を受けたところです。
私はこういう肩書きに頓着しない態度に惹かれます。


その理由を考えてみました。
私は、自分に肩書きがあるのに疲れてきているのかも知れません。
悔しいですが、私に肩書きがあることで、今回盛岡に呼ばれたのも確かです。

では、肩書きを外すとどう私の人生に影響があるのか。
肩書を外した時、果たして自分は世の中を渡っていけるのか。
素の自分にはそれだけの実力が伴っているのか。
どれも自信がありません。
肩書きなしでも食っていけるのか。人前で登壇する機会はもらえるのか。
どちらも心許ない、というのが正直な気持ちです。


死後に肩書きなど要りません。ですが私は、死して後、森鴎外氏や原敬氏のように記憶される何物も残せていません。
まず、家族以外の人には数年以内に忘れ去られるでしょう。

肩書に頼らぬ人生であるにはどうすべきか。
まずは今をもっと充実させ、そろそろ何かを残さねば。
肩書はなくても創造者にはなれば何かが変わる。
そうあらねば。そんな気持ちになりました。

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Yoshikazu Nagai(長井 祥和)
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