4月23日 たまり場と居場所作りの難しさ
4月23日ですね。
たまり場、居場所。
三月の頭にサイボウズさんで行われたイベント「子どもの居場所大会」に参加した際、参加された皆様の多くは、こうした居場所やたまり場をつくる活動に従事されている方でした。
たまり場や居場所を作るのは、簡単なようで難しいのではないか。それがイベントに参加しての印象でした。
なぜなら、こうした居場所は作るのは簡単ですが、その後の運営が大変だからです。
人が増えると規則が必要になります。ルールも整備しなければなりません。
それらを増やせば、居場所は窮屈になります。創設者の思いとはどんどん違う方向に行き、たまり場ですらなくなってしまう。
その難しさがあると感じました。
昔からあちこちにあったはずのたまり場は、誰かが作ろうとしたのではなく、もともとあちこちの村や町に存在していました。
ルールも規則も不要のただ人が集まる場所として。
昨日、久しぶりにそういうたまり場に行き、心地よい時間を過ごしました。
真鶴です。
私たちがふらっと入ったのは夜の八時ですが、夜でも地元の方々がふらりとやって来ては、喋って飲んでいく。そして私たちのような外からの人でも仲良くなれる。そんな場でした。
これが、たまり場の本来あるべき姿なのだと思いました。
ただ、こうしたたまり場は放置しては成り立ちません。
私が訪れたお店でも、長年店を切り盛りしてる方がおられました。
この方は、おそらく一見さんには優しいのでしょう。ただし、もし一見さんが横暴で失礼な振る舞いをした場合は、すぐに排除するはずです。
そうした排除が適切に働いてきたからこそ、場は成り立っているはずなので。
今、こうした場を新たに作ろうとする人たちが苦労するのも、こうした場での振る舞いを教わる場が社会からなくなってしまったためだ、という論調を聞きます。
私も、子育てをした身として心当たりがあります。幼い頃はそういう場で親が直に教える機会が多くありますが、幼稚園や小学校に入ると、そのようなルールを教わる機会は親から失われてしまいます。もし仮に、幼稚園や小学校でそうした社会のルールを教わる機会がなかったから、子供たちはどんどんそうしたルールを知らないまま、大人になってしまいます。
場でのふさわしい振る舞いを知らないブリリアント・ジャークのような方が来ることで、場が崩壊していく。
そうした人に毅然と対処できるスキルを持つ方が世の中から少なくなりつつあります。振る舞い方を知らぬ方が増えるのと反比例するように。
そのような現状では、規則やルールに頼らなくては運営が苦しくなるのも分かります。
ITツールで少しでも負担を減らしつつ、本来、こうした振る舞いを教える機会と時間を少しでも増やさなければならないと思いました。
まだ社会にこうした知恵を持った方が残っているうちに。