第8回 小木原三楽ってどんな人⁈
こんにちは。地域おこし協力隊のチャーリーこと濱田です。
たのかんさぁ探しをしていると、たまたま別の史跡を見つけることがよくあります。
この小木原三楽について知ったのも赤瀬川の大尾という地区でたのかんさぁを探していたときでした。薄暗い広場の奥に史跡のようなものがあったので見に行ってみるとそれは小さなお墓、案内板には「小木原三楽の墓」と書かれていました。
小木原三楽の墓
小木原三楽(荘兵衛 一七七三〜一八五七)
「茶馬庭院徳翁三楽居士」と墓碑に記されているように、製茶、乗馬、築庭の三つを楽しみ、藩の産業発展に寄与したことから三楽と号した。
製茶は斉宣公の命により宇治で学び八重霧として名を高めた。
乗馬は大坪流の達人で歴代藩公のお覚えも高かった。
庭園には桜並木や馬場が設けられ馬頭観音堂も建てられた。
墓はこの広大な静かな庭園を見守るように建てられている。
阿久根市教育委員会
阿久根の文献にいくつか小木原三楽について書かれていたので以下に抜粋&要約してみました。ちなみに名前の読みを書いている資料が少なく、阿久根文化財ガイドマップという資料には“こきはらさんらく“と書いてありました。
三楽は安永2年(1773年)波留小牟田(現在の阿久根地区栄町)で生まれました。
当時は荘兵衛という名で子どもの頃から弓や銃術、馬術を好み、馬術では藩内で広くその腕を知られ21歳のころには藩主島津重豪(しげひで)に認められ2年間城下で過ごし、さらに馬術を極めていきました。
また馬の調教にも優れていて城下から帰郷してからは赤瀬川大尾が丘に馬場を開き、毎年数頭の良馬を藩主に献上していました。
さらに製茶や造園にも長けていて、藩命を受け彼が51歳のとき文政8年(1825年)に宇治に赴き、5か月のあいだ茶の栽培、製茶、貯蔵法などを習得。帰郷後は田代の米次に茶園を設け、製茶を藩主に献上し製茶法を薩摩に導入。これによって阿久根茶の名を高めます。
晩年には武家屋敷の庭園造りも行い藩政下に大きく貢献しました。
馬術、製茶、造園の三つを楽しみ生きる荘兵衛は、晩年に「三楽」と号し大尾が丘の別邸にて余生を過ごし、安政4年(1857年)85歳で生涯を閉じました。
三楽さん、スーパー地域おこし協力隊みたいな人ですね。
あらゆることに長け、より学び、より極め、地元に還元するバイタリティ。見習いたい。
田代の米次は霧が深く宇治に似ているところからお茶の栽培に適しているそうです。現在では阿久根の製茶業は途絶えてしまいましたがこの地区には小木原三楽翁茶園跡が残されていて今もお茶の樹が生えています。
三楽のお墓と合わせて是非こちらも訪れてみてください🌱
☝️小木原三楽の墓
☝️小木原三楽翁茶園跡
お墓と茶園跡は離れた場所にあり、車でおよそ20分ほどの距離です🚗
次回は【おとんぼの滝】をフシギ発見🕵️