向かい風にむかって走る
向かい風にむかって走る
休日の昼下がり、スーパーに行くと素敵な収穫がいくつもあった。
まだ昼下がりなのに値引きになったお肉を手に入れて、旬をむかえた新鮮な野菜が手頃な価格でたっぷり手に入った。
特売のお菓子もかごにいれて、お会計もなめらかに済んで外に出てみたら……
ごろごろと雷が鳴っていた。
店に入る頃は、空は晴れてさんさんどころか、ギラギラと太陽が輝いていたのに……
今はもう空は薄暗い雲に閉ざされ、さあ、夕立だという主張をしっかりとしていた。
私はスーパーで得た獲物を愛車のかごに入れて、即刻走り出す。
その顔に、ぽつっと一粒の雨が降ってきた。
この一滴はすぐに、強烈な夕立に変わるだろう。
くるか。
私はいい肉といい野菜を、手頃な価格で手に入れた。
人生ってやつは、いいことがあれば悪いことがある、とか言う奴がいる。つまりは、お手頃価格のいいお肉と旬の野菜をたっぷり手に入れた代償が、この雨ということなのか?
プラスマイナス合わせてゼロ。つまり、神様とかいう野郎が実在するのなら、そいつはビタ一文出す気のないケチ野郎ってことだ。
いいだろう。上等だ。
私は覚悟を決めた。
雨が止むまでスーパーで雨宿りというのは、忙しい現代社会において許される贅沢じゃない。
スーパーにしたって迷惑だろう。ここは雨宿りする場所じゃない。
ならば私は家に帰るしかない。そして、家に帰って、このお肉で素敵なステーキを私はこしらえるのだ。
もうどれだけの距離を走破したのかもわからない、私が愛するママチャリにまたがって、ペダルを本気でこぐことにする。
しかし……
風までもが、私が素敵なお肉と新鮮な野菜をたっぷり手に入れたことに、しっかり代償を払わせようというのだろうか?
思いっきり、向かい風が吹いていた。
おのれ、負けられん。
私は向かい風に、本気で立ち向かうことを心に決めた。
まだ雨はぽつぽつとしか降っていない。だが、すぐに土砂降りの夕立に変わる雰囲気があたりには漂い、強烈な雨の匂いが空気の中に満ちていた。
どうせ、ずぶ濡れになるのだろう。
そうあきらめて、夕立にうたれるがままに、ゆっくり家に帰るという選択もあった。
そういう憂鬱が、一ヶ月以上続く長い夏休みのない夏には、似合うのかもしれない。
だけど、私は抗いたかった。
人生、良いことも悪いこともある。そんなありきたりな言葉に、ママチャリを本気だしてこぐこともせず、言いなりになることを私はよしとしなかった。
真夜中のベッドに迎え入れたことはないけれど、長年の相棒である愛するママチャリのペダルを、本気でこいで疾走しよう。
大都会の小さな部屋である、私の住まいに向かって。
いったいどれだけの距離を走破したのかわからない、ずっと乗っているママチャリを走らせる。
もしかしたら君と私は、とっくの昔に地球の反対側まで行ける距離を一緒に走ったのかもしれない。
そんな相棒とともに向かい風に、私はお肉とお野菜と一緒に全力で立ち向かっていく。
だけど、現実は残酷だ。
雨はぽつぽつから、小雨になり、ついには本降りの夕立となった。
すさまじい夕立の音と雷鳴が、私の両耳を満たす。
負けたか……
私はそう思った。
でも、私はなぜかずぶ濡れにはなっていなかった。
私は降り注ぐ雨を感じていなかった。
なぜだ?
私は、その理由がわからなかった。
視界に入る信号が、赤く灯る。
聴覚に満ちる雷鳴と夕立の音。そして、空気を満たす雨の強い匂いのただ中で、濡れることなく走る私は、ママチャリを止めた。
なぜ、雷鳴と夕立が生み出す雨音の中で、私は濡れていないのだろうか?
たちどまった交差点で、私はあることに気がつく。
夕立が生み出す音達は、私の背後から聞こえているということに。
私は、夕立の音に向かって振り返る。
そこには……
夕立に濡れる街の姿があった。
ほんのわずか、私から数メートル後方に広がる世界は、強烈な夕立に濡れる世界だった。
どうして?
これは奇妙な偶然なのだろうか?
私は空を見上げた。
そこには、私の後方に広がる街に向かって流れていく、黒ずんだ雨雲達の姿があった。
私の後方に向かって流れていく雨雲達をみて、私はこの不思議な現象のすべてを理解した。
雲は風に流される。私は向かい風に向かって走っていた。
私が全力でもってママチャリをこぐ方向と、私に吹き付ける向かい風に流される雨雲は、完全に真逆の方向に進行していったのだ。
夕立が降らないのに、夕立の音の私は満たされたのではなかった。
夕立は降った。私の後方に広がる街に。
向かい風に向かって走る私は、夕立とギリギリすれ違って、こうしてずぶ濡れにならなかった。
私の眼の前で、夕立は私にとっての向かい風にのって、ゆっくりとだが確実に私から離れていく。
私は、雨が動くところをはじめてみた。
それは、頭では当然起こり得ることだと理解できるのに、実際にまのあたりにしてみると、現実とは思えないような不思議な光景だった。
どうせ、ずぶ濡れになるのだろうと、走らない選択もあり得た。
だけど私は、向かい風の中を相棒と全力で走ることを選択した。
今にして思えばそれは勝負ではなかった。だけど、私はいま、ずぶ濡れになることなく、私からじょじょに遠ざかっていく夕立の世界をみつめている。
どれだけ遠ざかっていく夕立の世界をみつめていたのだろうか?
夏の暑さで、せっかく手に入れたいい肉がダメになるかもしれないと、私は思った。
ようやく視線を前に向けると、これまた都合がいいように、信号は青。
ではなかった。
最初に私を止めてから、いったい何回目の赤信号なのかすらわからないが、信号は赤い色を灯していた。
まあ、そうさ。そこまで運がいいと、まるで嘘みたいだよ。
私はそう言って、信号が青になるのを待って、素敵なステーキにつけあわせの野菜をたっぷり添えるために、大都会の小さな部屋である私の住処にむかって、再びペダルをこぎだした。