日本サッカーの歴史と発展
このnoteは
「スポーツ社会システムの構造形成 日本サッカーの発展過程と社会的背景」清水 正典
を読んだ個人的メモ
◆伝来
1873年にイギリスの海軍兵士アーチボルト・ダグラスから伝えられる。アーチボルト・ダグラスは帝国海軍強化の為に招聘された兵士だが、軍のトレーニングとしてではなく、学生たちの余暇の楽しみとして伝えた。1863年にロンドンでフットボールアソシエーション(FA)ができ、統一ルールの運用な始まったばかりであることから、日本に伝わった当初はプレースタイルなどが形成しきっていない状態だったと推測される。
◆歴史背景
明治時代の日本における海軍は欧米化の最先端で、服装や食事などの生活様式において徹底的に欧米式を採用しており、海軍を真似る形で世間一般に伝わっていった。しかし、学生の余暇活動のいちオプションでしかなかったサッカーは、そういった生活様式と同時に一般に広まることはなかった。
◆普及
その後1886年に東京師範学校の坪井玄道が教育教材としてサッカーを取り入れ、彼の教え子が教師として全国に赴任したことで徐々に広まっていった。
ロンドンで統一ルールが作られて以降、欧米各国では伝来から20-30年の間でメジャースポーツとしての地位を獲得していたが、日本では普及のスピードが緩やかであった。
一つ目の理由として、サッカーが伝来する前年の1862年に野球が伝来しており、野球は大学スポーツとしてや新聞メディアがこぞって関与したこともあり爆発的に普及した。
二つ目に、労働者階級が日本にはまだなかったこと。欧米では資本家vs労働者の構図が定着しつつあり、労働者のシンボルスポーツとしてのサッカーが圧倒的に支持されたが、明治初期の日本ではそういった風潮がなかったことが原因として考えられる。
拡がりを見せるのは大正時代に入ってから。学校体育教育にスポーツが教材として取り入れられ始めたこと。スポーツ教育の重要性が叫ばれ、体操一点突破の富国強兵が否定され始めた時期。1920年には大日本蹴球協会、1925年には全日本蹴球選手権大会が開幕。
◆発展
その後本格的に普及するのは戦後1960年代。明治から続いた富国強兵による体操科がアメリカによって体育科に変えられ、スポーツを教材とすることを奨励した。
1964東京五輪準備として、1960年にドイツのデッドマール・クラマーをコーチとして招聘し、システム強化と構造改革をはかる。
クラマーの提言
①コーチアカデミーによるコーチの質的向上
②プロリーグの創設
③芝生グラウンドの全国普及
④審判の質的向上と制度構築
この提言は目先の勝利にしか視点に向いていなかった日本スポーツ界に、長期的ビジョンの重要さを認識させた歴史的転換点となる。その結果、1964東京五輪ではベスト8、1968メキシコ五輪では銅メダルで釜本が得点王になるなど、日本サッカー史上でのピークを迎える。
サッカーの他にも、バレーや体操、テニス、ゴルフ、スキー、ボウリング、フィットネスなど、様々なスポーツが拡大していった。ブームの要因として東京五輪もあるが、高度経済成長による経済余剰の増大、テレビ放送の普及も影響したと考えられる。
だが、メキシコ五輪以降、日本サッカーは低迷。クラマーの提言によって急ごしらえでつくったシステムがまだ機能しきっていなかったこと。JSLというトップリーグが十分に整理されていなかったことなどが要因と考えられる。
1968メキシコ五輪以降、1996年アトランタ五輪までオリンピック出場できなかった。
一方70年代に入ると、トップレイヤーの停滞と反して高校選手権をトップとする少年サッカーが盛り上がりを見せ、80年代には育成年代におけるチーム加入者数が野球を追い越すまでに成長した。
トリガーはキャプテン翼。多くの少年たちがサッカークラブの門戸を叩くきっかけとなった。キャプテン翼が発するメッセージは、それまでの日本社会において常識だった縦社会、礼儀、律儀、根性などからの脱却を主張するものであり、それが当時の少年たちの心情と合致して流行した。
◆考察
スポーツの発展は、経済の発展と密接に関連している。イギリスで近代スポーツが生まれたとき、同時に産業革命を経て成長している時期でもあった。産業革命によって新興中産階級とレイヤーが生まれ、彼らが中心となってスポーツが普及されていった。
日本においても最初期は1920年代の大正時代で、戦前にしては経済成長があった時期。戦争を経て高度経済成長の時期にもスポーツは大きく広まっていった。
かつては王族や貴族などの上流階級の中で、乗馬や射撃、テニス、ゴルフ、クリケットなどが社交の場としての機能を持っていたが、労働階級によるカウンターカルチャーとしてフットボールが定着し、勝利の嘱望、チームへの帰属意識、自由な感情表現などが求められた。さらにテレビの登場により、スポーツの大衆化が進み、サッカーなどの労働階級にウケるスポーツが確固たる地位を築いた。戦後、ヨーロッパでもサッカーが急速に普及していったが、そのスピードは爆発的で、日本ではそこまで爆発的な普及には至らなかった。この要因として、ヨーロッパでは、
・プロリーグがすでに形成されていたこと
・国ごとの文化がスポーツに反映されていた
・そもそもの競技力が高く、五輪でも優秀だった
・元々あるローカリズムやナショナリズムと結びついた
日本では、
・ナショナリズムとスポーツが結びつかなかった
・競技レベルが低かった
・アジア諸国の経済成長が追いついていなかった
・プロリーグがなく、ファンも少なかった
などが考えられる。
93年のJリーグ創設以降、爆発的にサッカーが普及していくが、社会経済面からみた推測できる要因は以下。
・核家族によって育った世代なので繋がりを求める力が強かった
・Jリーグの地元密着とローカリズムが共鳴した
・強くなった日本代表によるナショナリズムの充足
上記から考えられる重要なキーワードは「人と人のつながり」ではないか
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?