超問題作『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を絶賛してしまう件
観てきましたよ!『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
映画ファンの間でも賛否両論真っ二つ。でも日本ではそこまで酷評・低評価ではない印象。
正直、面白い or つまらないは個人の感想なのでどうでもいい。
どんな名作だって「つまらなかった」と言う人は一定数いるから。
考察などもキリがないので、私は感じたことを感じたままに書きます。
ちなみに私は絶賛寄りの『賛』です。
本作の賛否の分かれ目は『前作をどう観たか』が結構あるのかな。
私は前作を『救えなかった誰かに手を差し伸べる勇気をくれる映画』と評しました。
悪のカリスマ・ジョーカー(バットマンを含む)の誕生譚でも、ヴィランをヒーロー視し崇める映画ではなく、アーサー・フレックのような人間を救えなかった自分を戒める映画だと思ったので。
なので本作は続編ではなく『前後編の後編』と感じ、鑑賞後はアーサー・フレックという人間の人生を見た、という感想。哀しいけれど凄く良かった。
そしてそこにジョーカーはいませんでした。
ジョーカーの大暴れを期待して行ったらジョーカーは不在でしたでは、そりゃ怒る。
ディ〇ニーランドに行ってミッ〇ーマウスがいない、アンパンマンミュージアムに行ってアンパンマンがいないみたいなものですから、激怒するよね。
あとトッド・フィリップス監督はミュージカル映画であるということは否定しているようですが、本作はミュージカル要素がある。突然歌い出して踊ったりのね。
ミュージカルではないけれど結構歌う。なのでミュージカル苦手な方はダメだろうな。
更に法廷と病院を行ったり来たりするだけの映えないシーンが続くので、その辺りが退屈と思ったら途中退席やむなし。
要はトッド・フィリップス監督の罠。映画を超えてしまった映画に対して付き合えるかどうか。
ネタバレなしで書けるのはここまでです。
できれば1作目を観直してから、その後半部分と思って観ると良いかと。
さて、ネタバレ行きますか?
ここからはネタバレありなのでご注意を。
本作、簡単に言うと前作の影響力が大きすぎて実際に事件が起こってしまったことに対する監督からのアンサー。
劇中でハッキリと『ジョーカーはいない!』と言い切っている。
アーサーはアーサーでであってジョーカーではないし、ジョーカーはただの犯罪者。法で裁かれる『ただの人間』である。
熱狂しカリスマ視して祭り上げていたのはただの偶像で、そういう人たちは『人間』を見ていない。自分が信じた虚構や現象しか見ない。
そして決めつける。『こうであれ』、『こうであるべき』と。
なので思い通りにならないとヒステリックに怒り出す。
(あれれ?これって・・・)
そこで監督は映画という巨大な虚構を使って盛大な肩透かしを喰らわす。
「そんなもの存在しないし、そんなものに必要以上に感化されるなよ」。
痛快じゃない?そんな裏切り方ある?
映画を超えてしまった映画に、更にそれを超える圧倒的メッセージをブチ撒けてしまった。
そして人間をよく見ろよ、隣の人を見ろよと。
アーサーはジョーカーとしてでなく、アーサーという人間を見てくれ、愛してくれと訴え続ける。
しかし、本作で唯一アーサーを受け入れていたのは同僚で小人症のゲイリー。「僕のことを唯一笑わなかった」友人として、更に「君のことが怖くて仕方ない」恐怖の対象としても。
私が一番哀しかったシーンは法廷でアーサーが例の笑いの発作が出てしまった時。
裁判官は「笑うな!これ以上法廷を侮辱するな!」と叫ぶ。
アーサーという人間を知っていれば彼が何故笑うのかを知っている。
それすらも知らない、知ろうとしない人たちが彼を裁く場にいる。
そのことが無性に哀しかった。
ここから怒濤のラストに向かうのだが、最後の最後まで手を抜くことなく、この虚構、ステージ、映画を全うする。
トップ画像を思い出してほしい。
『この世界は、ただの舞台』そして最後に流れる『That's Life(それが人生)』。
完璧じゃないッスか!?
否定派の感想もたくさん読んでいる。
ごもっともな意見も多々あるし、難癖じゃないそれは?とか憶測で書くものじゃないでしょってのもある。
でも、全部をひっくり返してしまうような本作を嫌いになれないどころか愛してしまう。
人間、いいじゃん。
From AleJJandro Hiderowsky