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「郷に入っては郷に従え」と多様性

授業のコメントというのは色々考えることを与えてくれる。学生たちが何に興味をもっていて、どのように考えているのか、そして自分はそれに対してどのように考えるのか、時間が許す限りこちらの考えは伝えたい。議論する時間がないのが惜しい。だいたい、50分で話せることってなんだ?


郷に入っては郷に従え


について考えた学生がいて、例えば日本で暮らすことになったインドの人が、「我々は手を使って食べ物を食べる。そのことを理解してほしい」と言ったと。そしたら誰かが、「あなたの子供を日本で育てる気なら、箸を使えるようにしたほうがいい」と言ったと。要するに、ここは日本であって、日本では手で食べ物を直接触れるというのは良くないことなので、そのようなことをするとあなた方家族が不利を被る、だから、日本で暮らすなら私達とおなじように振る舞うべきだ、という例をあげて、先生はどう思うか、と聞かれたのです。


うーん(゜-゜)


多様性というのは、「誰かが「このようにしたい」と思ったときに、それが認められる範囲が可能な限り広いこと」ということであろうと思います。(生物学的な多様性については、もう一つ記事を用意します。ビジネスにおける多様性なんちゅなものもあるようです)


だとすると、文化的・宗教的な背景をもとにした、個人のアイデンティティに関わるような習慣や行動は、認められて然るべきだと思います。


上の定義から考えるのであれば、多様性とは、手で食べ物を食べたいという人がいたときに、それを受け入れられる寛容さを、ホスト(この場合は箸で食事することが当然である文化を有する人)が持っていることです。


日本の文化を背景にした人は、麺類をズルズルと音を立てて食べます。多くの文化圏においては、この行為はマナー違反です。しかし、日本で育ってきた堤さんにとっては、蕎麦を音をたてずに口に入れるのは、単純に困難が伴うし、何より「うまくない」。さて、どうします?


ちょっとだけ学術的な話を。


昔編集した本の中に、東大のボイクマン総子さんが、おもしろい論文を寄せてくれていて、中国語ネイティブと日本語ネイティブ双方に、次のようなロールプレイをしたと。(※ロールプレイとは、ある状況が書かれたカードを手渡して、そこに書かれている状況をその場で再現するような、語学教育で用いられる練習法。寸劇です)


「あなたは友達から借りた本を電車に置いてきてしまいました。高価な本で、もう販売されていません。友達に謝ってください」

正確な文言は、本文を読んでください。


何が起こるか。

中国語ネイティブの人は、「自己弁護」と「互いの親しさに言及」するのだそうです。それぞれ、「悪いのは私じゃない」「私たちは友達だよね(だから許して)」と。

翻って日本語ネイティブは、「悪いのは私だ」と言って、「損害賠償を試みる」のだそうです。


なぜこのような違いが生じるか。日本語ネイティブは、謝罪する側が自分の非を認めることを期待しており、一方、中国語ネイティブは、謝罪される側が非難することが分かっているので、できる限り謝罪しないようにすると。


中国語ネイティブが日本文化圏で生きていく。そのときに、この謝罪の仕方の違いはどのように考えるべきでしょう。


郷に入っては郷に従え


なのか、いやいや、彼ら彼女らに自由に選ばせてやるべきだ、なのでしょうか。


ボイクマン氏は最後にこのように書いています。


(学習者の聞いて話すプロフィシェンシー≒能力とは)どのような働きかけの仕方が日本語社会でどのような意味をもつのか、それを聞いた人はどのような解釈をするのかということがわかった上で、学習者が自らの責任において自分らしい言い方を、それによって起こりうるリスクも承知の上で選択できるようになることである。(ボイクマン総子(2009:215))

ここでボイクマン氏は、「郷に入っては郷に従え」ではなく、彼らに選択権を与えよう、しかし、リスクは自己責任ね。と言っています。


2009年の論考であって、いま氏がどのように考えているか分かりませんが、時代の流れとして、氏の考えは、郷に入る側への要求になっていて、受け入れる側になんの変革も求めていないところに問題があると言えるのではないかと思います。


これから様々な文化背景の人たちと暮らしていくことになる社会において、「やってきたおまえらが変われ。我々はここから1ミリたりとも動かない」というのは狭量に過ぎると思うのです。我々の方でも、彼らのやり方を認める寛容さを身につけていく必要があって、それが多様性ということではないのかなと思うのでありました。


参考文献

ボイクマン総子(2009)「聞いて話す」プロフィシェンシーとその養成のための教室活動」鎌田修・山内博之・堤良一(編)『プロフィシェンシーと日本語教育』189-219, ひつじ書房


【イラストへの御礼】

いつもみなさんからのイラストを勝手に使っています。ありがとうございます。今日の写真はarinkosanさんから拝借しました。日本に来て、あるいは日本の人でも、他所へ移動して、やっていけるだろうかという不安な感じが表現されていると思いました。


【本日の一曲】

イ・ラン「艱難の時代」

韓国のシンガーソングライター、イ・ラン(이 랑)ちゃんの曲。イ・ランちゃんの声は、本当は生で聴くのが一番いい。

コロナがやってくる直前、神戸でライブがあって、初めて行ってみた。

最初から最後まで、ずっと半泣きだった。

声が、身体にストレートに入ってくる、としか表現できない歌声だった。


歌詞については、どこかで日本語訳が見られるでしょうか。めちゃくちゃ哲学的なことを歌っています。「死んでしまえば」。死んでしまえば、メールも読まなくてもいいし、書かなくてもいい……


艱難の時代。


韓国のことを歌っているのでしょうけど、いまの世界はすべてが「艱難の時代」と言えるのではなかろうかと、オリンピックが開会してしまったこの日に、思うのです。

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