授業中に「当てる」必要はない
今朝(2022/04/16)、Twitterを見ていたら、学生の自己紹介に多い「人見知りなので話しかけてほしい」というのは、「あなたが努力するべきなのに、それを放棄している。自分が努力しろ」という旨のツイートを見た。
本名ではなかったのでどなたかはわからないが、「教員」となっている。その人のツイートを見ていると、大学教員のようである。そして、ハンドルネーム(古)は、ある心の広いキャラクタである。いますぐそのハンドルネームを取り下げて、狭量のキャラクタ(何?)に変更されるとよい。
「自分が人見知りなことを棚に上げて、人見知りじゃない人に話しかけてこいとは厚かましい。お前から頑張って話してこい」というのは、人見知りの学生にとって、あまり気分のいい提案ではないだろうと思う。ついでに言うと、人見知りじゃない人は積極的に話しかけていくので、人見知りの人とプラスマイナスでうまくいくはずである。そのバランスをわざわざ否定して、努力を求めることに、どのような意味があるだろう。
「人見知り」にも程度はあるだろうけれど、なぜそれを「努力してなおす」必要があるのだろう? コミュニケーション能力がないと社会でやっていけないから? 「社会」ではなく「会社」なのだろうね。会社の売上に貢献するような人「材」にならないから、ということだろうね。
話しかけるとか、人前で声を出すという行為に苦痛を伴う人がいる。それは「欠点」ではなくてその人の属性だ。パソコンできないなら出来るようになれよ、というのとは違う。
授業中に「当てる」というのも、もうやめればいいと思うようになった。人前で話すのが得意な人と苦手な人がいて、得意な人が苦手な人を助けて進んでいけば、それでいい。話せない人は、話す以外の方法でパフォーマンスを評価されればいい。(追記 全く当てずに教師がひたすら喋る授業を推奨しているのではありません。全員に問いかけ、誰かが発声するのを待つべきだと、今のところ考えています)
とにかく、人には得手不得手がある。不得手は、努力ではどうにもならないようなレベルのものもある。そういうものを「克服すべきもの」にして彼らを苦しめるより、彼らの得手を伸ばす方がよほど良いと思う。
そもそも、弱者に努力を強いるロジックは、よろしくない。ステラドネリーがboys will be boysで、友達の男性から性的な暴力を受けた女性のことについて歌っているが、そこで「どうして二人きりになったのか、なぜそんな肌の露出の多い服を着ていたのか」と、女性を責める声について非難している。当該の部分から再生するように設定したつもりですが、見られますかね?
僕が考えることはステラドネリーと同じである。弱者や被害者の「努力不足」を責めるなどということは、あるべきではないと思う。
とプリプリしながら朝食を作った。調理中はいつもラジオを聴いているのだが、たまたま聴いたアシタノカレッジで、村中直人さんという臨床心理士が出ていて、叱ることによって叱られた相手が成長することはあり得ないと言っていた。科学的にも実証済みらしい。
一昔前に、「叱ると怒るは違う」とか言っていたけれど、叱られる相手に何も残らない、むしろ萎縮して、よいパフォーマンスができないという点では一緒である。
日本語教育にも同じことが言える。某政治家が記者会見で非母語話者の記者に対して「日本語わかります?」と宣ったことがあるが、こちらが、分かるように話すべきなのである。少なくとも、お互いに歩み寄る姿勢は必要で、片方(弱者)に一方的に努力を求めることは間違っている。
そもそも、人見知りというのがよくないという命題を真として、それを前提に努力を強要するなどというのは本当によろしくない。「○○については当然このように考えるのが「善」なのだ」というのは、往々にして人の心の深いところに根を張っていて、本当はそうではないのかも? という考えに至らない。
テレビを見ないので知らないが、人見知りだけれど芸能人の人とかいっぱいいるのでは? そしてその人は、人見知りであるというその人のその属性が、魅力の一部として愛されていたりもするのでは?
「郷に入っては郷に従う」について書いたことがある。言っていることは同じである。
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