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音と酒と本

深夜に放送されている音楽番組をぼんやりと聞き流しながら、やっすいウイスキーにはちみつとレモンを入れてお湯で割ったもので喉を潤して、文庫本に目を落とす。
そんな時間が愛おしいと知ったのは、はじめて借りたあの部屋でのことだった。

あの頃は比喩でも何でもなく世界が灰色に見えていた。毎日が辛くて堪らなかった。
目の前の選択肢をひとつひとつ丁寧に塗りつぶしながら生きていく日々から抜け出す方法を知らなかった私は、その場でただもがいていた。

「家に帰ってきてもいいんだよ」
「体裁が悪いからヤダ」

そんな会話を毎日両親としていた。
はじめて実家を出て部屋を借りたのは結婚を機に県外へ出ることが決まったからだ。
既婚者というレッテル以外何も持っていなかったから、世間体とか、体裁とか、そういうものが何よりも大切に思えていた。

灰色の世界の中で、夜更けに溺れる音と酒と本。それがあの頃の私の全てで、あの時間が今の私を作った。
少しずつ、少しずつ、自分を形作った。
こんな時間も悪くないな。ようやく、そう思いはじめた頃に引越しが決まった。

物を全て運び出して、空っぽになった部屋を見たとき、カラーボックスを置いていた場所だけ変色した畳に気づいて、次の部屋では気をつけようと思った。
そのとき、あの部屋ではじめて色が見えた。

#はじめて借りたあの部屋

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