ほどほどに

我々の身の回りには様々な道具がありふれている。そして道具には様々にデザインが施されている。そんな中、昔から形をあまり変えずに残り続けてきたもの。そんな誰がデザインしたのか分からない、アノニマスな、人々が生活する上で、自然と形となっていったもの。(デザインのデザイン、原研哉著)

一例として箸がある。

箸は、フォークやナイフのように持ち手が膨らんでいたりせず、棒である。日本人は生まれてからこのただの棒のようなものを器用に使いこなすように親から教育を受け、当たり前のように使いこなす能力を身につけてきた。しかし、教育を受けたからこそ、使えるのであり、箸を見たことも使ったこともないアフリカの民族の前に現れたのならば、この棒の使い方など分からないだろう。ひょっとすれば、日本人とは全く違った使いこなしをするかもしれない。誰しもが、何も考えずに、思考を停止させ、簡単に利用できるものこそが良いデザインだと言われることが多いように感じられるが、これまで述べてきたようなほどほどにデザインがなされた"箸"にこそ、目指すべきデザインの仕方があるのかもしれない。

「人間の身体どころか心までを使わないで済むような必要以上の間違った便利さを見直すべき。」と塑する思考(佐藤卓著)の本に書いていました。これは、近年ますます進行しているあらゆる分野の自動化においても当てはまることだと感じます。自動料理機なるものがこの世に出現しました。ドラえもんがイメージキャラクターとして採用されたあの外資系のキッチンメーカーの商品です。しかし、食に関して調査している大学の先生によると、自動調理機で調理されたご飯は美味しいと感じないのだと。人間が生きる上で欠かせない衣食住のうちの食。その分野にまで自動化を持ち込まなくてもいいのではと。人間とはほどほどに手間がないと人間ではなくなってしまうのかもしれない。技術的進歩によってもたらされる自動化や効率化は、こういった視点が欠けていれば、誤った応用がなされかねず、人間らしさが侵されると感じます。技術始点でなくて、人間始点でテクノロジーを応用する。
「ほどほどを極めるレベルを今一度模索しなければならない時が来ているようです。それこそは資源の問題。エネルギー問題。そしてこの国の文化的価値の問題などど密接につながってくると思われてなりません。」

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