BOWIEはここで、なにを見たか。
その禅寺は、京都の北部、西賀茂の山の中に
ひっそりと佇んで建っていた。
京都地下鉄の北大路駅で降り、まずは今宮神社に参詣した後、
あまりに久しぶりに京都にやってきたこともあって
せっかくなので、徒歩で向かってみた。
その日は、まだ梅雨の明けない7月の初旬でありながら
すでに気温は33度を超える日で、
身体中に熱が籠ったような暑さにまとわりつかれ
歩いて向かったことに、
私は
結構、悔やんでいた。
今宮神社の東門から約30分ほど歩き、一戸建てが連なる住宅街を抜けると
突然
山の緑が生い茂る風景が現れ
そこが「正伝寺」の山門となっていた。
私が、ここ、「正伝寺」に
一度は来てみたいと、ずっと思っていたのには理由があった。
愛するDavid Bowieが、1979年12月に撮影でここを訪れ、
以来、プライベートでも
何度か足を運んだと、聞いた。
なにが彼をそこまで揺さぶったのか、
この目と心で確かめたいと思ったからだ。
以前から行ってみたいとは思いつつ、東京で仕事を抱えている身では
なかなか足を運ぶことはできなかったけれど、
今回、
"そうだ、京都行こう"
と、CMのコピーのように、
本当になんの脈略もなく思い立ったとき、
「正伝寺」のことが脳裏に甦ってきた。
今はネットもGoogle Mapのナビもあるいい時代で、
死ぬほどの方向音痴の私も、なんとかたどり着くことができた。
一礼して山門をくぐると
空が隠れるほどに繁った木立が続く。
木の匂い、涼しい風が汗ばんだ肌を撫でていく。
樹々のざわめきと、透き通る清流の流れる音。
ウグイスの美しい鳴き声が、空に向かって響き渡り
やがて寺社が前方に見え、最後の坂を登る。
四条あたりは、オーバーツーリズムというのか、
外国人観光客で、どこもかとこも溢れかえっていて、
京都なのか、どこかの外国の街なのかもわからないような
状態だったけれど
ここでは、訪れたのは、夫と私の二人だけ。
酷暑の中での徒歩選択には、我ながらちょっと悔やみはしたけれど
もうすでに、
「ここに来てよかった」
そう感じている私がいた。
入口で拝観料を支払って本堂に入る。
「はっ・・・・・・。」
思わず唇から息が漏れた。
と、同時に、ぐっと感情が込み上げてきて、
目頭が熱くなった。
なんと美しい・・・・
小ぢんまりとしたその庭は
遠くの比叡山を借景にし、
なにも足すことも、引くことも必要のない、
「これでよい」
という、潔さ。
凛とした佇まいが
こちらの
猜疑心や邪念をも伴ったような疲れた心を
どーんと受け止め、
一瞬で浄化するような、そんな清廉さがあった。
ボウイは、
ここの縁側に何時間も座って
ただただ庭を見つめていたという。
彼は、
ここで静寂という音の世界に包まれて
何を心に刻んだのだろう。
小一時間、
夫と私は
会話することもなく、
ただただ、
山々と庭の風景に包まれ、
風と樹々のざわめきと小鳥たちの囀りに
身を預けた。
帰りがけ
ご住職の田村さんとしばし歓談させていただいた。
去年亡くなられた、谷村新司さんも、年に何度ともなく
フラッと訪れて、
一人、縁側に何時間も座っていらっしゃったという。
ここで生まれた詩や曲もあったのだろうか。
ここに来なければ、知らずにいた
この心のスッとした空気感。
誰しも、疲れを覚えても
時間や人に自分自身を殺されて、
どうしようもなくなることがある。
それは、ボウイも谷村さんもきっと同じだっただろう。
心の浄化を時々求めて
ボウイは海を渡って来ていたのかも?しれない。
何十年の時を経てではあったけれど
音楽を愛する者の一人として
同じ感覚を纏えたのは、
至福のひとときだった。