2024/08/25

「これはどういうことなんだろう」
 思わず漏れた声が土曜の夜の自室に溶けていく。入眠剤としての効果を期待して読んでいた小説が思いがけず難解で、しかもその難解さが予想とが違った性質を持っていたために、頭を捻らずにいられなかった。どうも選ぶ作品を間違えてしまったようだと切り捨てることは簡単だったが、しかし理解の及ばないことが悔しくて、僕は横たわっていたベッドから立ち上がって冷蔵庫へ向かった。冷やしておいた麦茶を口に含む。その味はいつもと変わらないのに、飲み込むのに時間がかかった。喉元を過ぎていったはずの液体が胸元に広がる実感はない。壁掛け時計を仰げば、時刻は午後九時を回ったところだ。
「少し歩くか」
 やはり独りごちて、最低限の荷物を持って自宅を出る。左へ行くか右にするか、と思い悩むことはなく、自然といつもの散歩コースへと足は動き始めていた。コンビニの明る過ぎる光に羽虫が集っているのが目に付く。分かりやすいものに惹かれて、そして何も分からずにそのまま死んでいくのだろうかと、漠然と感じながら足を運んでいく。
 少し歩けば川に辿り着く。ここは下流だから川幅も広く、流れも緩やかなものだ。特に眺めていても楽しくはないし、水音が快いというわけでもないが、どうしてだかいつもここにやって来る。普段と違うのは日が暮れてから来たということだけだ。河原に降りていける階段に腰かけて、暗闇のために流れが見えないから耳を澄ませる。しかし、車の走行音や風の音や微かな虫の音にかき消されて、都会を流れる穏やかな水の音は聞こえづらい。何も見えず、何も聞こえない場所へ来てしまったのだと僕は思った。
 僕は家に置いてきた小説のことを思い返す。もし星の光が届いたなら、もう一度ここであの作品を読み返したいと思った。けれどそれはある種の気まぐれでしかなくて、家を出るときにあの本の存在を顧慮してすらいなかった。それに家へ帰ったならきっとその難解さに腹を立てて再び読み返すこともしないだろう。そうして都会の、日常の、生活の中へと帰っていったなら、もうあの難解さはこの世から消え去ってしまうのだろう。
 僕は思いがけず一筋の涙を流していた。第二、第三の涙粒が地面を濡らす分だけ、僕の中の水分が枯れて生じた空白の分だけ、僕は新たに何かを得られるような気がした。だから、僕は泣ける分だけ泣いておこうと、そう思った。

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