映画『CURE』感想ー間宮という存在の“浅さ”
『ウルトラマンアーク』に萩原聖人が出る(それもウルトラマンの声で)とのことで、せっかくならなんかハギー(ファンは彼のことをそう呼ぶらしい)の代表作を予習しといたほうがいいかなー、と思いとりあえず『CURE』を観ることにした。
黒沢清監督の名前だけは前から知っていて、なんとなく「自分の好みに合いそうだなー」と思いつつも作品はちゃんと観てこなかったのだが、いざ鑑賞してみるとたしかにスゴい。まだ2本しか観ていない状態ですでにだいぶ喰らっている。
なので今回は、『CURE』のなにがそんなにスゴいのか、僕が本作でどう“喰らった”かをちょっと書いてみたいと思う。
(まぁまぁネタバラシしてます。気になる人は本編を先に観てね)
あらすじ
記憶喪失の若い男ってのが、萩原聖人が演じる本作のメインヴィラン(?)である間宮だ。
この間宮というキャラクターがとにかく語りがいのあるやつなんだ。
“怖さ”=“底知れなさ”?
前半における間宮はとにかく不気味で得体の知れない存在として描かれている。こちらの問いかけをのらりくらりと躱し、自分の本心を決して明かすことなく、しかしこちらの隠された本性を容赦なく暴きたてる。
その正体も目的も手口も、一切が謎に包まれた、底の見えない深淵のような人物・・・・・・のように振る舞っているが、実際の彼はそうではない。
少なくとも、間宮の正体と手口に関しては中盤で割とあっさり判明してしまう。
彼の本名は間宮邦彦。大学で生体磁気とメスメリズム(催眠術の一種。詳しくはWikipediaなどを参照)の研究をしており、卒業後は川崎の廃品処理場で住み込みのアルバイトをしていた。
この世ならざる不思議な能力のように見えた間宮の暗示は単に心理学的なノウハウを用いたテクニックでしかなく、おそらくは記憶喪失も詐病であった可能性が高い。
そう思って彼のトークを聞いてみると、なんというか、「あぁ、そうやってその気にさせるのね」と冷めた気持ちになってしまう。手品というのは種が割れてしまうと途端に陳腐に見えるものだ。
彼は、自身の研究の成果を実践していたに過ぎなかったのだ。一連の犯行はおそらく、虫眼鏡で日光を収束させて蟻を燃やすように純粋な好奇心に基づく行為だったのだと僕には見えた。間宮はメフィストフェレスなどではなかったのだ、と。
とくに、ひろゆきとか石丸伸二みたいな言いたいことだけ言って他人を煙に撒こうとする人を見慣れてると余計に「イタいヤツだなぁ」と思ってしまう。
ここまでボロクソに書いてるように見えるが、僕は間宮というキャラクターが結構好きだ。それはなぜか。
たとえば『ダークナイト』のジョーカーのように最後まで素性がわからないキャラクターにしといたほうがカッコよくはなるはずなのに、間宮は背景をバラしちゃってなんかもったいないなぁ、と最初のうちは思っていた。
だが、最後まで観てからしばらく考えるうちに、「間宮はカッコよくてはいけないのだ」ということに気づいたのだ。
“間宮”は遍在している
間宮の正体と手口を知ってから、高部は彼の言葉にまともに耳を貸さなくなる。これは大杉漣が演じる警察の偉い人も同様で、ようは間宮という人間に興味を持ち、彼の言葉に耳を傾ける姿勢をみせた者だけが引っかかるわけだ。小学校の教師しかり、心理学者の佐久間しかり。
しかし、間宮の言葉を受け入れていないにも関わらず高部は妻を殺害してしまう。それはなぜか。
結局はすべて間宮の掌の上だったのかといえば、僕はそうは思っていない。作中でも指摘されているように、もともと高部は妻のことを快く思っていなかった。彼の殺意はいつ表出してもおかしくないほどに膨張しており、間宮との出会いは単なるきっかけにすぎなかったのではないか。たぶん、高部は間宮と会わなくても何か別のきっかけで奥さんを殺してたと思う。
それは間宮のターゲットにされた他の人たちも同様で、みんな程度の差はあれ元から殺意の種を胸に抱えていたのではないか。間宮はただ、その種に水をやったにすぎないのではないだろうか。
あなたには、殺したいほど嫌いな相手はいるだろうか? 僕にはいる。もうずっと会っていないが、なぜあのときトドメを刺さなかったのかといまだに思う。
酒鬼薔薇聖斗しかり、植松聖しかりだが、みんな殺人犯のことを特別視(神聖視と言ってもいいかも)しすぎだと思う。
ああいう人たちのことを「モンスターだ」「サイコパスだ」「常人には理解できない」などと言って“こちら側の世界”から遠ざけようとするが、僕に言わせれば「自分は絶対に人を殺さない」と思えるなんて、たいした自信だ。潔癖と言ってもいい。みんな、自分の中には一片の殺意も存在しないと思っているんだろうか。もし目の前にどうしても許せない相手がいて、たまたま手近なところに武器があったら、僕は使わない自信がない。はっきりと殺すつもりはなくとも、「ちょっとヤキ入れたれ」ぐらいには思ってしまうかもしれない。それでうっかり手が滑って殺しちゃったりしたらどうする? 自首する? Amazonでパイプクリーナーを大量購入する?
今日まで自分が誰も殺さずに生きてこられたのは、単に運が良かっただけだ。誰だって誰かを憎んだり怒りに駆られることはあるだろう。そういう当たり前の感情から“殺意”までの距離って案外短い気がする。俗に言う、「あなたの身に起こるのは、明日かもしれません」というヤツだ。
だからこそ間宮は“悪のカリスマ”などではなく、誰の周りにも当たり前にいそうなフツーのヤツでなくてはいけなかったのだ。
間宮というキャラクターの空虚さは、言葉というものがその実態以上に影響力を持ってしまう現代の情報社会を予見しているように僕には思えた。
TwitterなどのSNSを少し覗くだけでも、頭でっかちで口だけは達者な中二病患者たちの姿を無限に見つけることができる。そういう中身のない無数の人々の言葉が今やネット上で大きな力を持ち、多くの人たちを扇動し、その結果として取り返しのつかない事態が起こる。あなたもさんざん思い知っているだろう。いまや誰も彼もが“プチ間宮”になりうるのだ。
みたいなこと考えてたら、今年9月に公開予定の黒沢監督最新作『Cloud』はインターネットにおける憎悪が現実の暴力へと発展していく様を描く作品らしい。監督の真意はわからないものの、僕としては「やっぱりそこ繋がってくるんだ」とかなり納得してしまったのだった。
揺らぐ日常と“開かずの扉”
黒沢清の作品に共通してみられるテーマとして、「日常と隣り合わせの非日常」がある気がしている。
さっき「人は誰しも殺意の種を抱えている。間宮は他人にゼロから殺意を植え付けるのではなく、もとからあるものを自覚させているだけ」というようなことを書いた。みんな選ばないだけで、選択肢としての“暴力・殺人”は常に手札に存在しているのではないか。
僕はときどき考える。たとえば電車に乗っているとき、「いまここで俺が暴れたらどうなるんだろう。カバンの中にカッターナイフあるけども」とか、ベランダの柵から地面を見つめて、「いまここから飛び降りたらどんなカンジなんだろう」とか。やらないけど、やろうと思えば全然できてしまう。非日常というのは日常から徒歩5分ほどの場所にあるのだ。
「やる」か「やらない」かの境界さえ踏み越えてしまえば、あとはもう簡単なことだ。そういう簡単なことの積み重ねが、ゆくゆくは大きな破滅をよぶかもしれない。
同じく黒沢監督の『回路』には“赤いテープで目張りされた開かずの扉”が登場する。この“開かずの扉”がこちらの世界と死後の世界を繋ぐゲートウェイとなるのだ。
始まりは些細な出来事だった。ひとりの名もなき男がふと思い立って赤いテープで扉を塞いだ。“開かずの扉”に魅入られた者が同じように“開かずの扉”を作り、あるいは“開かずの扉”を開けてしまい、狂気は伝染してゆく。それが最終的には人類滅亡という結果さえ招いた。
『CURE』の間宮と『回路』の“開かずの扉”はともに、人間の抱える“「選んでしまうかもしれない」という漠然とした不安”の象徴と見ることができる。また、“開けてはいけない扉”というモチーフは『CURE』でも“青髭の地下室の寓話”という形で触れられている。
ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。とりあえず黒沢清監督の映画は他にもいろいろ観ていきたいと思っているので、そのうちまた感想とか書くかもしれません。
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