53歳になって思う事-自分史
今日は4月4日。自分のお誕生日です。子供達を通常通り学校に送り出し、今日は、お誕生日ということで、ディナーは、特大プレミアムリブアイステーキを家族と食べに行く予定。サプライズで買ってくれたと思われるアイスクリームケーキがベースメントの冷凍庫に隠れています。笑。本当にありがたいなって思います。感謝!
昨日は昨日で、ずっとずっと今までいろいろな体験を一緒にしてきた友人が、カップケーキと一緒に凄く素敵なメッセージ入りのカードをくれました。「いつもゴールに向かって前進している輝いているあけちゃん、素敵です。これからもワクワクを追い求めて人生楽しんでね。幸せいっぱいの一年になりますように」泣きそうになりました。自分はとても涙もろい人間です。すぐ感動してすぐ泣いちゃう。
運は期待値とのギャップ。自分は運が良いと思う人って期待値が低いそうです。だからちょっとしたことでも、自分、めちゃくちゃ運がいいなぁって思えちゃう。これを聞いた時、まさしく自分はコレだなって思いました。昔から自分は、ラッキーだなぁって思っていたけど、もともとの期待値が低かったから笑。だけど、そう思いながら過去53年間過ごせたことに、これもまた感謝かなって思います。
さて、どうして自分が53歳にて思う事を書こうかと思ったキッカケ。去年の7月に日本の商品を輸入、卸販売する法人会社を設立。それ以来、今まで経験した事のないスピードで様々な方々とつながっている自分がいます。その中でも特に刺激を受ける二人の方とお話する機会が昨日同時にありました。
一人は、沢山の事業を過去次々と成功させてきたある年配の尊敬する経営者。自分の事業についても多々アドバイスをいただいている方です。お話を聞くたびに尊敬するし、凄く刺激を受ける。そして、もう一人は、ある展示会を通じてつながった地元の大学でビジネスを学んでいる日本人学生さん。14歳の時にカナダ単独留学。まだ20歳という若さにも関わらず、私が20歳だった頃にはありえなかった経歴を持ち、経験として事業を手伝ってくれてます。彼からも毎回会うたびに凄く刺激を受けます。
この二人とミーティングをしたことで、面白いなって思った事があります。
年配の経営者さんは、「君はまだ若いんだから、もっと挑戦するといい。応援しているよ」。そう言ってもらうと、あぁ自分まだ若いんだな、まだまだ頑張ろうって思えてくる。同時に、学生さんに会うと、あれ?若いなんて言ってられないなぁ。この事業のゴールとしている5年後を考えちゃいます。
引退?でもさぁ引退って何だろう?人生引退しちゃったら、いったい皆さん何するの?人生まったり生きて終わるのを待つの?人生なんていつ終わるか分からない。ぶっちゃけ自分は自分のやりたい事、旅行、お金稼ぎ、子育て等々いろいろ満喫してきたし、いつ終わっても満足かなって思っています。と同時にせっかく生きているんだったら生きているって事に感謝して、その時に自分が興味ある事、楽しいなぁワクワクするなぁってゴールを決めて、やってみてもいいと思います。
一つこなしたら、また一つやってみる。10個の達成感より11個の達成感。それが人生じゃないかなって思います。あぁあれもこれも挑戦した。楽しかった。そんな人生の終わり方?
先日、青い空に現れたまっすぐな飛行機雲を見ながら、自分も飛行機雲みたいな人生を送りたいって思いました。まっすぐ生きて、美しく消えていく。カッコいい。。。
幼い頃は、本を読むのが好きでした。伝記、イソップ童話、シャーロックホームズシリーズ等々。図鑑も凄く好きだった記憶があります。おもちゃとか全然興味がなくて、誕生日に何が欲しいっと聞かれると、近くの本屋さんで売っている絵図鑑。動物図鑑、植物図鑑、宇宙図鑑、人体図鑑、いっぱい部屋に図鑑がならんでいた記憶があります。親からも親戚からも学校の先生からも、「あけみちゃんは、本が好きねぇ。」「はきはきしている。」「朗読が上手」小学校一年生の時の担任の先生が、あけみちゃんは、本が好きだからと、わざわざ、父親が経営するハンコ屋(父はハンコ職人、地元では有名人でした笑)に、本を買って届けてくれ、母親が大喜びしたのを覚えています。「誰に似て、あんたは、そんなに本が好きな子供になったんだろうねぇ。お母さん、分からないわ。」母親がつぶやいていたのも覚えています。
本好きな反面、やんちゃなところもあって、実家が岩手県、田舎だったこともあり、学校が終わると、近くの山や川や神社、公園で日が暮れるまで遊んでいました。皆で遊べるゲームを作り出すのが好きで、天国と地獄という鬼ごっごゲームを作ったらそれが大うけして、学年で流行って違うクラスの子も参加してきて、皆でワイワイ遊んだのが嬉しかったのを覚えています。夏休み中は、イベント作りは任せてと、いろいろな企画を考え、6年生の時に、神社をお化け屋敷に作り替え、夜中に皆で集まって肝試しをするというイベントをし、大泣きする低学年の子もいたけど、あれは楽しかった。
中学に入ると、文化祭、音楽コンクール、委員会では、しゃべりがうまいということで、議長。吹奏楽部の部長も経験して、「先輩、憧れです!」なんてカードを後輩から頂く事もあり、それも嬉しかったなぁ。
そういう自分も高校に入ると落ち着きが出てきて、将来の事を考えるようになっていました。進学校だったこともあり、入学してすぐに、進路、大学受験、今まで楽しんでいた吹奏楽部も、なんとなく受験のプレッシャーにながされて、私は受験勉強に専念するんだ!と一年でやめてしまいました。一つの事にハマるとそっちに集中してしまう。当時は、受験が人生の目標みたいになっていたのを覚えています。何を考えていたのか、理系のクラスを選択してしまい、クラスメートが医者か看護婦か衛生検査技師?を全員目指すみたいなクラスになっていて、血を見るのが大嫌いなのに、なんで自分はここにいるんだろう。って、混乱していたのを覚えています。どう進学して良いか分からない時に、母親が、「いいのよ。あんたは、将来、お父さんのハンコ屋をつげばいいんだから。だれか良い人と結婚しなさいっ」「公務員が一番安定している」あぁそうなんだって思いながら、地元にある県立の短大に進学することになりました。
短大に進学すると、今度は、地元公務員をめざす!みたいな雰囲気の場所で、経営学、プログラミング、英語、簿記等々、その他、職場マナーとか、席の場所とか、お茶の入れ方とか、それなりに短大生活は楽しかったのは覚えています。初めての一人暮らし、お化粧したり、ファッション雑誌みて、大人風の恰好してみたり、デートしてみたり。バイトも色々経験しました。喫茶店でのバイトは楽しかった。大人達との付き合い。パチンコ屋でもバイトしました。一度、景品トーケン間違えて8千円のトーケンの代わりに8万とか渡しちゃって、仕方ねぇなぁと羽振りの良い高級車を乗り回していたパチンコ屋の息子さんが肩代わりしてくれて、かっこいいと一時惚れてみたり笑。
そんな時、私と同年代のいとこが短期でアメリカ留学をするという話が母親の元に届きました。「あんたもそんな地元に根付いていないで、どっか海外でも行ってみたら?」母親の一言がキッカケでした。海外?あまり考えた事なかったけど。。。ちょうどその時、ウィンブルドンテニスにハマっていて、ステファンエドバークという選手がかっこよくて、いいわぁと盛り上がっていた時でした。ウィンブルドンに行ったら、エドバーグに会えるのかしら?そんな気持ちで、よし海外に行ってみよう。特に英語を勉強したいとか海外を経験したいとかではなく、そんな動機で海外留学を決意。次の日、夜行バスで、渋谷にあるという海外留学センターに足を運んでいました。
ウィンプルドンの英語学校に行きたいんですけど。。カウンターの方に相談したら、「ウィンブルドンですか?この学校がありますね。飛行機代、正規料金で購入して頂けたら、手配代は無料になりますので、ご両親と相談してみてください。」と、学校案内、申込書、銀行支払い振り込み書をささっと準備して封筒に入れてくれました。
母親は、私の行動力にビックリしていました。後で振り返った際、まさか本当に留学するとは思っていなかったようです。
大学に進学すると思って貯金していたお金が、超安値の県立短大でおさまったということで、「もともとあんたの為にためていたお金だし、いいよ。行ってきなさい。」当時は、高度成長期、ハンコ屋も繁盛しまくって景気が良かったし、両親は、こころよく私を海外に送り出してくれました。イギリスへの飛行機代、正規料金、たしか30万から40万くらいだったと思います。今、思うと、何が手配料無料だ、飛行機代のコミッションでだいぶ儲けていたんだろうなぁって思います。世の中に無料なんてものはない!ちなみにこの留学センター空港お迎え料金も支払っていましたが、到着が遅れたためか、お迎えサービスと称したタクシーの運転手さん帰ってしまったのかな?留学早々、英語分からない中、ホームステイ先まで自分で地下鉄に乗りウィンブルドンのホームステイ先まで行きました。このホームステイも今思えばなんてホームステイだったんだろう。しかしながら、この時は、自分でホームステイまで行けたという達成感の喜びがいっぱいで、それを思うと、そういう経験があったから、今の自分があるのかもしれません。この経験については、別のNOTE、「どうしてホームステイ?」に書いてます。興味のある方は、ぜひチェックしてみてください。
イギリス、ウィンブルドンでの留学は、刺激でいっぱいでした。願望のステファンエドバーグにも会えたし、その年、ウィンブルドンテニスで優勝した、ボリスベッカーさんとも素敵なご縁ありました。ホームステイ先の近くに彼の別荘があり、決勝戦当日、別荘から、出てきた彼に、よく分からん英語で、「Boris! I am sure you WIN!!!」と声を掛けたら、「Thank you!」と言ってくれて、ついでに一緒にツーショットで記念撮影してくれました。決勝戦の朝という大事な瞬間に、今思うと、なんて図々しい。新聞記者さんが、近くにいて、私達がツーショット撮っている写真を撮っていたんだけど、あの写真、記事になったのかしら。今でも謎です。まぁいいかぁ。
ボリスベッカーさんが、優勝した瞬間、「ほら!私がグッドラックの声がけをしたからよぉ」っと勝手に言いふらしていたのを覚えています。笑
その他にも、日本での生活から、かけ離れたという環境もあってか、毎日遊んでいました。キングストンという地区にあるナイトクラブに通いまくり、恋も沢山したなぁ。今でも思い出すのは、韓国からのキレイな二重をしたあの彼。日本のオフコースが好きで、オフコースを聞くと彼を思い出します。
同時に、オフコースを聞くと思い出すのが、高校時代、亡くなった友人。中学の頃から吹奏楽部で時を共にして高校に入ってからもずっと仲が良くて、絵を描くのが凄く上手で私は彼女の絵が大好きで、小説とかも一緒に書いたりしました。そしてお互いに交換して読んでみたり。でも突然、何かの細菌が体に入ってしまい、二日であっという間に、いなくなっちゃった。夜、真っ暗な部屋の中で、幽霊というモノが存在するんだったら、出てきてっと、ずっと泣いてました。命なんていつどうなるか分からない。今でも彼女は私の守護神だと思っていて、でも亡くなったおじいちゃんや、おばあちゃん、中学時代に可愛がってくれた国語の先生、亡くなった方々全員、思い出すたびに思い出せば思い出す程、実は全員、見守ってくれているような気がして私もいつか命が終わって、誰かの守護神、子供達とか?になるのかなぁなんて思ったりもします。ディズニー映画の「REMEMBERME」じゃないですけど、思い出してもらえるというのは、幸せな事なのかもしれません。だから生きている間に私が出来る事は、思い出していく事。このNoteを書いていることも、皆さん喜んでくれているかな?高校時代の友人の話に戻ると、地元に帰るたびに、お墓参りにいっていたのですが、去年帰った際、彼女のお母さまが亡くなったらしく、お墓が移動になっていました。どこに移動になったのかは分からずじまいで、空を見上げてお参りしました。それからは、お墓がなくても誰でも空を見てお参りすればいいんだって思って、時々空を見上げてはお参りしています。
イギリス留学から日本に帰国し、短大生活を過ごしましたが、頭は、もう一度海外に行きたいという思いでいっぱい。そんな時、通っていた短大がカナダの短大と姉妹校になるという話が入ってきました。英語担当の助教授が私に声をかけてくださり、「あけみさんは、イギリスから帰ってきたばかりだから英語も話せるだろうし、カナダの先生と会ってみない?」とお声がけ頂き、それがキッカケで今度はカナダに留学することになりました。カナダ?バンクーバー?漠然とカナダという国は知っていましたが、バンクーバーと言う場所の名前は聞いた事がなく、でもとりあえず行くと決めて、短大卒業後、カナダ行きの飛行機に乗りました。
短大のあった場所は、バンクーバーではなく、バンクーバー島でした。バンクーバー国際空港から、今まで乗った事のない揺れまくる小さな小型飛行機に乗ってバンクーバー島のナナイモ空港に到着しました。緑いっぱいの、当時はなんともいえない独特な雰囲気の何もない場所。延々と森が続く空港からの道のりを眺めながら、私はどこに来てしまったんだろうっと啞然としたのを覚えています。同時に未知の世界にすごくワクワクしていました。
たどり着いたのは、学生寮。カナダらしい木製のこじんまりした学生寮で、スーザンさんというチャキチャキっとした金髪のおばさんが迎えてくれました。あなたのお部屋はここね。っと通された学生寮の部屋。窓の外には、鹿がいました。凄い。
ベットには、マットレスはありましたが、シーツも何もなくて、スーザンさんに、ベットはこれだけ?と聞いたら、そうよ。シーツと布団と枕は自分で買ってきてっと言われて、唖然。。。そこで出てきたのが、K君。同じく日本から来ているという学生さんでした。「スーザンが、日本から新しい生徒が来ているって言っていたんだ。布団ないんだって?先週までここに住んでいた子がコレ置いていったから使いなよ」と布団セットを持ってきてくれました。「おなかすいてない?これから皆でご飯食べに行くから一緒においでよ」なんと優しい。荷物を置いて、K君が運転する車に乗って、ナナイモのダウンタウンに向かい一緒にご飯を食べました。ハーバーモールという小さなショッピングモール。この後、このショッピングモールが私にとってのナナイモでの4年間、沢山沢山想い出が詰まった場所になるとは、その時は想像もつきませんでした。
ナナイモでの4年間は最高でした。K君はその後、日本へ帰ってしまい、日本人は学生寮内で私一人だけという状態になりました。英語環境にどうなれるか?どう友達を作るか?大きなキッカケになったのはバレンタインデー。Happy Valentine!といって、学生寮に住む全員に、前日作ったアーモンド入りの小さな手作りチョコを配りました。日本でいう義理チョコ。これが大うけして面白い子ねぇと学生寮の中でお声がけ沢山いただくようになって、自分は車を運転していなかったけど、島のあちこち、いろいろ冒険しました。楽しかったぁ。
旦那との出逢いも、実は、この学生寮。カナダBC州の北部にあるQUESNELという小さな街の出身、当時まだ17歳だった彼は、日本人を見た事がなかったらしく、そこで興味を持ったようです。当時、私の週末スケジュールの中に、サーモン釣りで有名なキャンベルリバー出身の釣り好きグループが毎週末釣って帰って来るサーモンをさばいて照り焼きサーモンを皆にふるまうという習慣があり、彼もそのサーモンを食べに来るようになりました。そのうちサーモンだけでなく、私が作る日本食も、これはなんだ、あれは何だと食べに来るようになり、いつの間にか付き合っていたという、そして結婚。当時、結婚を迷っていた私に、「ダメになったら別れればいいのよぉ」と、アドバイスくれた友人に感謝。結婚なんて勢い。振り返るとそんなものかなっと思います。勢いで結婚してカナダ永住に至る。人生そんなものです。
結婚して、私は仕事を始め、彼は学生生活をしながら、バイト生活。同僚に旦那は学生というと、大変ねぇとかコメント頂くことあったんですけど、若いって凄いなって思っていて、当時はそんなに自分は貧乏とか思わなかったし、ギリギリ生活って、若い時にするといいなって思います。後々、旦那も稼ぎが出てきて、タウンハウスを勢いで購入することになるんですけど、この時の経験が活かされ、タウンハウスの支払いを8年で終わらせるという快挙を成し遂げました。その後、タウンハウスを3倍近くの値段で売り、今の一軒家を手に入れ、今ではその一軒家も3倍近くの値段に膨れ上がりました。住む家の値段が上がるって税金が高くなるし、あまり嬉しい事ではないですが、今では家も購入できないという方々が多々いる中で、購入出来て良かったなぁと思います。
若くして結婚した為、あまり子供を産むとか考えた事のなかった自分でしたが、30代になった時かなぁ。旦那が子供が欲しいと言い出し、私も、出産って大変そうだなぁと思いつつ、周りが子育てしているところを見て、いいかなぁと思い、ずっと飲み続けていたバースコントロールピルをやめました。さて直ぐに子供が出来たかっというと。。。
それがなかなか出来ない。ちょうどその頃、旦那も稼ぎがどんどん増えていき、私も仕事をしていたし、家のモゲージもなかったので、お金はどんどん増えいく。稼ぎが2千万を超えたらってよく言うけど、その頃は、いっぱい贅沢しました。好きなもん買って、外食して、旅行して、クルーズ旅行も行きまくり、二人ラブラブでいいわねぇと言われながら、でもね。子供連れの家族を見ると辛くて辛くて。その時かなぁ。お金で幸せって買えないんだなぁって思った事を覚えています。同時に、その時のクルーズ旅行の経験が活かされてクルーズ手配業を後々することに。人生って分からないものです。
子供が出来ない出来ないの人生から遂に長男を妊娠。めちゃくちゃ嬉しかったです。世の中にこんな幸せな人間がいるんだろうかと思うくらい毎日が幸せ。オフィスでも大きなお腹で仕事しながら幸せでたまらなかった。今思うと、子供が出来なくて悲しい日々があったからこそ、あそこまで幸せだったんだろうなぁと思います。
長男の出産をキッカケに退職。専業主婦となりました。。。。
その後もいろいろ。長男は自閉症、次男が生まれ、知り合いから頼まれて、ホストファミリーリクルート業を引き継ぎ初めての起業。クルーズ手配業、そして、去年の7月に日本商品の物販業を起業。法人化。
53歳の私が今やってみたい事。安定にも飽きてきて、もう一度冒険がしてみたいのかもしれません。インターネットという便利なツールが出来て、日本とコミュニケーションがとれるようになり、同じ昭和世代を過ごした私と同年代または少し下の年代の方々が社長として事業をしていて、また日本とつながりたいというか、何か同世代同士でつながって一緒に何か出来たらいいなぁみたいな感覚です。
今月、日本に帰ります。今年はなんと春と夏、2回帰る予定。ZIPエアさんという格安航空券が出て携帯でぽちっと航空券を購入できる時代。80年代の後半イギリス留学した時の正規料金航空券手配。そんな時代を知っているから今の時代がありがたいと思う日々です。
さて、今後どんな未来が待っているんでしょう?
そう思うと、そうだなぁ。未来のためにできること。
それを自分は、模索しているのかもしれません。