生まれる

お前にこれをあげよう。


男がそう言って差し出した手には何もなかった。



森のなかにも季節の変化が訪れて、下草の色彩は黄色みを増し空気のなかにあった粘り気も日に日に薄らいでいく。鳥達はさらに空高く鳴き交わしている。


裸ん坊の男は自身で編んだ蔓草の布を纏い裸ん坊ではなくなった。

ひとたびコツを掴むと男は必要なものを全て自身の手で難なく作り出すことが出来た。生来の賢さが男には備わっていた。

蛇はときどき自分が世界で見知ってきたことを男の寝入るそばで語り聞かせた。そうしたお伽話が次に会ったときには男の中でなにかしらに受肉している。蛇にはそれが嬉しかった。

そして男は相変わらず蛇をお前と呼んだ。

森の主であり“この”世界の王者である蛇だったが彼女はそれを受け入れた。受け入れたというよりも気に留めなくなった。どちらにしても男が蛇をお前と呼ぶ響きは彼らしく、蛇にも男にも収まりが良かったのだ。

男は美しかった。

蛇の目に世にも賢き輝きとして映った姿はその実、威厳に通ずる美貌でもあった。一見すると男女の区別のつき難いそれは、全体的な線の細さに反して隠れた筋肉に覆われ、良質な骨格が芯を支え、艶のある髪は豊かで手足は長く特にその手に揃っている十本の指の美しさといったら蛇でなくともうっとりと何時間でも眺めていたくなるほどであった。


色気、というのがあるのよね…


いつだか蛇は寝入り端の男の頭上の枝に絡まりながら自分もうとうとと舟を漕ぎながら呟いた。


色気?なんだそれは。


そればっかりはうまく口では言えないものなのよねぇ…  言ってしまうと野暮になるから…


お前は時々私が理解できないことを言うんだな。そういうことを聞かされると私は眠れなくなってしまうんだが。


そう…  それは大変ね…  


おい、先に寝てしまわないでくれ。気になるではないか。


うん… はいはい、そうね…  そうそれはね… だから ちょうどあなたの指みたいなこと…よ…


蛇はくるんと頭を自身の胴に巻きつけて枝から落下しないように片結びをしてそのまま寝息をたてはじめた。彼女はこのところよく眠る。それまで男が寝る姿を夜通し観察していられるほど宵っ張りだった蛇だが、一転して男が彼女の就寝を見届けることのほうが多くなっていた。

蛇が今しがた言ったことを反芻しながら男はその夜自分の指をじっと見つめ続けた。


蛇が常よりも眠り続けるのはどうやら身籠っているからのようだった。蛇は子を産むと同時に自身も生まれ変わる。宇宙とまぐわい、世界を孕み、己れを脱皮する。そうやって悠久のいのちを受け継いできた。彼女は何度も死に、何度でも生まれ直す。この度の円環を解き螺旋に展開させる時期が近づいてきたのだった。

男はそんな蛇の変化にそわそわと落ち着かない気持ちになった。常よりも長く眠る以外はとりたてて変わったところのない蛇だったが、彼女の胎が少しずつ膨らみ、気に入りの枝に昇ることも難しくなりだすと、男は森の番いの鳥たちの巣を真似て小枝や葦を集めてきては寝心地の良さそうなベッドを巣穴のなかに拵えたりした。それまで蛇の保護下にあった男が何かにつけ蛇を慈しんだ。

蛇はそのように献身的に世話をされたことがなかった。それはこれまで彼女がすることであり、受け取るものではなかった。


出産も間近かと思われる晩秋の宵の口、男は巣穴近くに焚き火を熾して蛇が冷えてしまわぬ為に火の番をしていた。

一日中とろとろとした眠気のなかにいた蛇はやがて目を開けて夜空の響きに耳を澄ませた。もうすぐそれがやって来る。その音を聴き逃さないようにしなくては。


蛇が身を起こした気配を察して男は彼女に近付いて行った。

そうして、手を差し出した。


お前にこれをあげよう。


焚き火の影がそちこちで踊る。男の目は迷いなく蛇を捉えている。差し出された手は何も持たない右の手であったが蛇には分かった。


ああ、そうか。私はこれを待っていたのか。長い長い転生のなかではじめてだった。


円環が解ける。

それが濁流のごとく押し寄せてきて蛇はむせかえるような愛に満たされ天に昇る。

生まれる。

生まれるのだ。





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