絞首
お前は優しいんだな。
首元に優しく巻きついた白蛇のしっとりとした鱗越しの血潮が心地良い。冷たいのに温かい。緩やかなまとわりの重みをじんわりと感ずる。そうするうちにこの生き物の上機嫌が伝播してくるではないか。それはすぐには判ずることの出来ない類の、けれども確かな感動だった。
「ねぇ」
首元で蛇が囁く。私は狂気じみた内側の洞がすっかりと収縮してしまったことを感じながら蛇の声に耳を傾ける。甘く優しい囁きだ。
「あのね……その『お前』って呼ぶのなんとかならない?私、あなたのしもべではないのよ」
驚いた。蛇め、私が弱っているのをいいことに図に乗ったことを言い出したようだ。
獣め、私に対してなんだその言いようは!
「ちょっと、ちょっと。あなた、沸点低過ぎよ。困ったひとね…」
そう言うなり蛇はそのまま身を引き締めはじめた。きゅうう、と肌の上を鱗が滑り気道が締め付けられてゆき、息が……くるし…
……く、はならないか。
きゅう、と甘噛みのていで彼女は私の首を絞める振りをしてみせてそのまま顔を覗きこみ、舌をチロリと出してみせる。
「ふふ。このまま本気で絞めましょうか?私の締め付けは簡単には解けないわよ。あなたが私に無礼を続けるならそうしてもいいのよ」
なんて奴だ。やはり蛇は蛇だな。と、口にしそうになったがちょっと待て。彼女は何を不平に思っているのだ?獣風情が礼儀をどうこう言うとは、やはりここは私の世界ではないのだろうか。
お前…じゃない、なんと呼べばいいのだ、き、君か、君、君……は何が不服なのだ?
「嫌だわ、分からないの?ひとの住む森にいきなり裸ん坊でやって来て、まぁそれはいいけれど、初対面でしかも知恵のある者同士なのに『お前』はひどいと思わない?あなた、そんな風に育ったの?あなた、王様か何か?王様だとしても私の森で私に無礼な口をきくことは許さないわよ」
ここはお前…じゃない、君の森なのか。
「そうよ」
そうか。ここではお前…じゃない、君が主人なのだな。
「別に主人ってわけでもないけれど…まぁ、そうね。ここは私の森で私が統べているのよ。だからって特別に敬意を払えってことではなくて……ねぇ、分からない?私とあなたはどちらも存在してるのよ」
そうだが。
「あなたの口のききかたは、まるであなたが世界に独りっきりみたい。私は小道具か何か?そんな感じなの?でも私のこと見えてるでしょう?感じているでしょう?私は目の前にちゃんといるでしょう?」
そうだが。
「だとしたら、ちゃんと“そのように”私に対して下さい。私は『お前』ではありません」
困った。蛇が何をそんなに怒っているのかがいまいちよく分からない。分からないが、これは彼女にとって大切なことで、しかも私にとっても大切なことのようであるらしいことは伝わってきた。どうもよくない。私に分からないことがあるということが“分からない”。
おま……いや、君。私はすっかり何もかもを忘れてしまったようだ。分からないということが分からない。しかし存在同士であるということは…それは分かる。そして私は、君がいてくれて嬉しい。
「あら」
蛇は急に全身脱力したかと思うと首元の絡まりを解いて地面に転がり落ちた。
大丈夫か。
「大丈夫、大丈夫!あ、びっくりした。あなたってちんぷんかんぷんなひとね!」
蛇は転がり落ちたその場でくねくねと落ち着かない様子をみせる。どうやらもう怒ってはいないようだ。分からない。なんなのだ。
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