デッサン、そして蛇のあくび

例えばデッサンの練習なら。

対象をひたすら様々な角度から見つめて手を動かすだろう。

鉛筆の運び、筆圧の強弱、紙との摩擦、手は触覚を通して求める画力にアクセスし、目は視覚を通して対象との距離感、見ているままを捉える透徹さなどを自身の内に育む。

デッサンはあくまで“ありのまま”を捉えようとするレッスンだ。それは作品ではない。誰かを通して表れた以上、まったくの客観物ではないけれど、そこにある意志はこの世界における普遍を目指しているには違いない。


わたしがわたしを生きるとき。

やはりこのデッサンとしての“見る”ことは基礎練として必要かもしれないな、などとふと思う。

透徹した目。

それに耐え得る心の器も。

すぐに自分の好きな色や画材で自分色の創作物の世界に行ってしまう前に、世界へのバイアスを無自覚に重ねてしまう前に。

もちろん、その先に好きな世界を創造するためだけれども。


愛するものを通して見えてくるわたしの恐れや嫌悪、見ないようにしていた諸々が浮かび上がる。

愛する対象というのは試金石だ。

それは魅力的で同時に畏れでもある。

わたしが健やかなとき、その対象を心の底から祝福するし、病んでいれば呪いもする。呪う自分を見てまた呪いを重ねる。

ひとときも同じ状態には留まらない。

それは刻々と変化する。

わたしの心の内側で。


それら全てを受けとめるように教示された。


そうしたいマインドの自分と拒絶するボディの自分。あるいは、その逆。

まぁ見ていなさい、とどこかのフェイズの自分が言う。

これは求めてない、と身体を強張らせる自分がいる。

目を逸らさないように、と諭す自分がいる。

だからいいんじゃない!と耳元で励ます自分(これは自分というよりみうらじゅん氏だ)もいる。(ちなみに「だからいいんじゃない!」は「人のセックスを笑うな」(構文/人の○○を笑うな)と同様のマジックワードだ。あなたが自分のなかで見えない考えに抑圧されそうになったとき、呟くといい。かなり有効だから。)


わたしの世界はわたしのゆるす限りの“いいもの”で溢れていればよかった。わたしの美意識、経験、作りあげてきた世界観。閉じた円環のなかでお花畑に寝そべっている。

だが今、円環の尾をくわえていた筈の蛇の口が知らぬ間に少し開きはじめているのかもしれない。

蛇は一度輪をふりほどき、姿勢を変えてみたくなったのかもしれない。

蛇の気分転換とレッスンの進行と死ぬまで続く変化が連結したかのように。その潮目のうつろいを見逃さないように。








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