深夜便(黒ヤギさん宛)

ええと、返事。返事。

これが返事になるのかは分かりませんが、あなたの言う「返事はなくてもいいです」は返事をして下さい、と言っているように思えて仕方ないので(笑)お返事さしあげようと思います。そうですね、たしかに最初にボールを投げたのはわたしのほうですし、ね。


今日わたしは“境界線と浸透圧”ということをぼんやり考えていました。

境界線をまたいでしまいがちで何度かあなたとはケンカになりましたね。その度に言葉でそう言われたわけではないけれど『なぜきみは無神経にも境界線をまたいでしまうんだ』と責められている気になりました。どうですか?そう思ってた?

まぁいいのですけどね。

だってせっかく出会えて愛しあえたことだし、パートナーってそういうものでしょう、と思っていたところは確かにあったんです。

なぜそんなに構えなくてはいけないのかしら、わたしのことを信用できないのかしら、だとしたら失礼な話だわと、その度にわたしも心のなかで反発していたものでした。


結局わたしは最後まであなたを取り巻くであろう境界線を見分けることは出来ないまま、けれど確かにこちらの侵入を拒絶する城壁のような気配を感じてフェイドアウトしたのでした。って、こんな風に書くほど大げさなことではないですよね。でも…、見えない壁はやっぱりありました。あるような気分に最後のほうではなってしまった、というのかしら。

あのね。

わたしは境界線も壁も勢いでぶち壊した経験があるの(笑)

そのあとに自分に訪れた解放感と、それからどんどん増していく自由度に自分の活路を見出だしたことがあったんです。ちょうど中学生から高校生になる頃。そうなる前は多分あなたと同じように(と言えるのかは自信ないけれど)自分の周りを牛乳瓶の厚い硝子のようなものが覆っているような、世界と自分とを区切る境界線があって、そこから外の世界を眺めては自分の世界の息苦しさや不感状態におかしい、こんなわけない、とジリジリして過ごしていたんでした。

それがどうして変わったのか、なんて言っても後付けでしかないでしょうけれど、ひとつには死ぬほど苦しい病気で入院したことと、それが治って翌年まだ中学生なのにひとりでアメリカに渡航したこと、このふたつが思春期の経験にしては強烈だったからとしか思えないけれど。まぁ、そんなことがあったおかげで周りの皆が口に出して指摘するほど、わたしの世界との打ち解けかたが変わってしまったの。

こんな話は向かい合っているときにはなかなか出来ないものですね。わたしはあなたにとって気楽な存在でありたかったから、余計に自分のことを深刻に話す気になれなかったのもあるし。まぁいいや、自分のことは、と思っていたの。

ねぇ、これってもしかしたらわたしの側の境界線なのかしら?

最近ある人から「あなたは風景にとけこむような在り方をしてますよ」と言われたの。「ちゃんと人間になってください」って。

よくよく聞いていたら、自分をしっかり持ちなさい、ということらしいのだけど。他者に引きずられてばかりではダメですよ、と。

ずっと前に自分を覆う牛乳瓶をぶち壊したものだから、今度は逆に自分を適切に取り纏めるための境界線が分からなくなってしまったみたい。こんなことならぶち壊すんじゃなかった……とは、思わないけれど!

思わない。やっぱりそうは思わない。

だってわたしが今のようなわたしでなかったら、あなたと出会えたと思う?その他の、色々な出来事にも出会えたと思う?

わたしが無神経にも(!)越境し、手を伸ばし続けたからこそ、今ここにいるわたしであれるのだもの。

そして、いま、ひとりでいる。

ひとりだけどシャン、と立っている。

全然立派ではないけれど見事だと思う。

そうしてあなたに手紙だって書き送っている。


さて、境界線ということを考えたときにわたしが意識すべきは浸透圧かな、と思ったこともお伝えしておきますね。

わたしがこれから自分のために自分の境界線を確立させるとしたら、それはきっと内側と外側がある程度自由に行き来できる細胞膜のようなものになるだろう、と思ったのです。その膜を通してわたしの魂の濃度が都度都度変化する。外側のひととの兼ね合いでわたしのなかからそちら側へと色濃く出て行ったり、ときには自分を守るために薄まって“ひきこもったり”。

どうかしら。

そんな風に考えている今夜です。


相変わらず薄寒い日が続きますね。

わたしは今夜コンビニの杏仁豆腐をデザートに食べました。最近わたしがハマってるのはそれなんです。相変わらず適当だな、と笑われそうだけど。おいしいの、結構。今度だまされたと思って食べてみて下さい。

では。おやすみなさい。




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