見出し画像

遣らずの雨

 わたしには、堅く堅く蓋をして、一生誰にも見せずに墓の中に持っていきたい感情がある。


 雨は嫌い。世界が静まるような、時間が止まったような、あの感じがたまらなく苦手。
「はぁ」
 吐き出す息がため息に変わる。何をしているんだ。朝、寝坊をしたこと。家を出るとき、ちらりと折り畳み傘が目に入ったけど、見送ったこと。一日の始まりがそんな感じだと、全てが上手くいってないような気持ちになってくる。
「早くやまないかな」
 薄暗い思考の名残が雨と一緒に流れてしまえば、少しは好きになれるのに、なんて。
 仕事、恋愛、友達、生活、そのどれもに追い詰められて。投げ出したい、でもできない。それをしてしまえば、安寧は得られるだろうけど、空虚にも見舞われる。
 人生は、矛盾だらけだな。
 誰もいない公園、雨を凌げるのはありがたいと駆け込んだ軒下のベンチには、先客がいた。
「にゃあ」
 威嚇するでもなくそうひと鳴きすると、隣に座ったわたしにぴたりと寄り添った。甘えるようにすり寄ったり、膝に乗ったりするわけでもなく、温もりを感じる距離感でそこに座る猫。
「今日、少し肌寒いもんね」
 んーと、まるで返事をするような声。猫って、こんな声も出すんだ。思いがけず成り立った会話のようなそれに、憂鬱な気分も霧散する。
「君はどこかの子?野良さんかな」
 視線を向けると、綺麗な瞳とぶつかる。
 話なら聞くぜ、と映画かドラマのワンシーンのような台詞が聞こえてきそうな、そんな柔らかな視線。勝手な思い込みだろう、でも、わたしの中の何かがパンと弾けた。
「すごく、好きな人がいたの。初めてだった、これが最後の恋だと思ってた。でも、ある日突然いなくなった」
 三回目の春だった。何十年後も一緒だと思っていた、当たり前に。仕事で大きな失敗をして、転職するんだと。疲れたようにそう言った彼は、しばらくそっとしておいて欲しいと望んだ。
 自分にも覚えがある、だから“そっとしておいて”は本音だと思った。心配ではあったけど、期限を一ヶ月と決めて様子を見ることにした。
 一ヶ月後、彼は消えていた。部屋は引き払われ、仕事も辞めたようだった。わたしの周りからすっかり消えてしまった彼の気配に、絶望した。
 なんで、なんでと毎日考えて、後悔と戻らない日々への焦燥。こんなに簡単に切れてしまう縁だったのか、いやそうじゃないはずだ。きっとそのうち、落ち着いた彼から連絡がくる、そう信じた。
「半年くらい経ったころ、彼を見たの。隣に並ぶ女の人と談笑しながら、ベビーカーを押してた」
 あのときの感情は、思い出したくもない。追いかけて、叫んで、罵って、ひっぱたいて、とにかく目が焼けるように熱かったのを覚えてる。結局わたしはその場から動けなかった。
 泣くこともできずに、ただただ呪詛の言葉を繰り返した。こんなに醜い感情が自分にあったのかと驚くほどに、恨んだ。
「もう昔のことだけど、今でもたまに思い出して、吐きそうになる」
 いっそ吐いて、このざらついた気持ちをわたしから出してしまいたい。泣いて喚いて、あの日の自分を慰めてあげたい。
「いいぞ」
 吐き出せ、泣け、喚け。
「!?」
 驚いて辺りを見渡すと、いつの間にか雨が上がっていた。
 雨上がりの空って、こんなに綺麗だったっけ。次第に滲んでいく空。涙に気づいたとき、彼を葬ろうと思った。わたしの好きだった彼は、もういない。ちゃんと、さよならしなきゃ。
「にゃあ」
「…もう喋ってくれないの?」
 こんなに救われた気持ちになれるなんて。
「うち来る?」
「うにゃあ」
「よし、君の名前はアメだよ」

 雨は嫌いだった、さっきまでは。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?