出不精 芸術の森へ行く
Intro
最近はMouthwashingに続きサイレントヒル2やOMORIなど、とにかく鬱々とし気分の沈むゲームばっかりやっているので趣向を変えて外に出ることにしました。なぜおれは自分から心が傷つくゲームを遊んでいるのか…?
「そういえばここのところカメラをいじっていないし、せっかくなら写真でも撮りに行くか。何か撮りやすい題材は……」と考え地元の美術館に決定。山梨県立美術館に行くことに。
そんなわけではからずも芸術の秋らしく、今回は作品鑑賞をする記事を書くことになりました。先週の土曜日に撮った写真と一緒になんとなくおれの感想も垂れ流しておくので、ヒマだったらお付き合いください。
山梨県立美術館。ミレーの落穂拾いとか種を蒔く人が有名ですね。世界的にもここ以上にミレーを収蔵している美術館はそうないらしく、ミレーが好きすぎる人が設立に絡んでそうだなとおれは勝手に思っています。
館内は撮影禁止区画があったり入館料がかかったりするのですが、周囲を取り巻く敷地は芸術の森という公園になっていて、無料で誰でものんびり散策できる場所なのでそこをぶらぶらすることにしました。
芸術の森へ
まずは本館前のケンタウロス像がお出迎え。後ろ手に支える竪琴はともかくとして首がかなり大丈夫じゃない感じなので少し不安になります。
調べてみると正確には「瀕死のケンタウロス」というタイトルらしく、戦って致命傷を受け今にも死ぬかどうかのケンタウロスの苦悶と肉体を描いたものとのこと。なるほど、そもそも大丈夫じゃない状況を描写しているので苦しげに首をもたげているわけですね。ひとまず納得はしました。ただ、なんですかね、死にかけのケンタウロスを入口に置くのも若干縁起悪そうだなと思うのは日本人的な感性でしょうか…
こういったものを見ると美術館の特異性を実感しますね。
日本人の日常生活の中でいきなり「ケンタウロスが…」とか言い出したら何言ってるんだコイツと思われざるを得ないでしょうが、美術館に行くとまるでお通しとばかり、Hey!くらいの気軽さでケンタウロスがそこにいます。
つまりこの場所が普通ではない、芸術のための場、非日常の場ということなのだと気付かされます。ここは神話とかイマジネーションとか空想が当たり前に転がっている特殊な場所であって、ここで古今東西の異形とか亜人とか神々の話をしてもとくにおかしくはない。社会のルールとは違う規則が敷かれている、ひとつの異界であると肌で感じます。
美術館の正面入口向かいに安置されています。
つるりとした表面や曲線的なパーツでなんとなく生物的ではあるなと思いますが、タイトルを言われてみると人体に見えてくるから不思議ですね。左下は骨盤、右上は肩甲骨とか胃の腑っぽさがある。
改めてなんですけどケンタウロスどころか四つに分かれた人体ふつうに置いてあるのってかなり尋常じゃない場所ですよね。ここはこういう世界観なんで早めに慣れてくださいというメッセージを感じます。
当日はレンズを標準ズームと25mm標準(35mm換算50mm)のふたつ持っていったので、ズームレンズで一巡したあとにもう一巡固定倍率で回ってみました。こちらは25mm固定の方。25mmで撮ったほうにはキャプションで付記しておこうかと思います。やっぱりこっちのほうが良質なレンズなのかきれいに写りますね。
17時くらいになって作品に照明が当てられています。ライティングがまたセンスあって良いムードです。
美術館の向かいには文学館も併設されています。こんな事言うのもアレですけど同じ芸術ということでガサッと一緒に敷地にまとめられているのが山梨らしいなというかなんというか…。
山梨は富士山が見えることや避暑地であったこともあり、自然をテーマにした文学とも関わりが深いですね。太宰治が湯村の温泉宿に逗留したりと、何気に文豪とゆかりある地でもあります。
噴水とその根本の配管。
噴水の配管なんかとってどうすんだという話ですが、「噴水」という人に美を見せるための装置のグロテスクな根本が露出していて、とても使い込まれた質感がなんか良いなと思ってしまいました。
教科書に載っている「水の東西」という一節がありますが、元来水というものは人間など知らんとばかりにゴウゴウ流れているもので、噴水はそれを人間の力で従わせてやろうという営為の元こうして噴き出しているわけです。大昔はヘロンという数学者が位置エネルギーを用い、今では水道を引き電力とポンプを使って水を従わせていることになります。地上で美しい光景を演出するために、おれたちから見えない足元では絶大な力と科学が存分に振るわれているんですね。
太古から連綿と続く人間の「我」というか、道具を使って世界を開発していかねば我慢できないサガのようなものが垣間見えて面白いです。ヒトと自然の戦いの歴史が伺えます。
芸術家と彫刻家
ゴッホ像です。今にも折れそうなほっそりとした駆体のわりに得も言われぬ力強さがあり、内に秘めた激しい彼の気性を思わせます。
ゴッホは怒りっぽく精神的に不安定なところがあったので友達が少なく、画家のサロンというか現代でいうシェアハウスをやろうとしてあんまり上手くいかなかったり、生前はなかなか評価されなかったりと孤独な人生を送っていた人なのですが、没後こうして像を作られるほどに熱烈に愛されているのがなんとも切ないですね。作者のオシップ・ザッキンはゴッホの没年に生まれた人だそうで、どこか思うところがあったのかもしれません。
全体としては不安定さを感じさせつつも、アングルによっては、イーゼルや画材を背負って歩く厳然たる姿勢が際立ちます。眉根の彫りの深さも力強いですね。
服の生地の荒々しさは、ガシガシと絵の具を厚く重ねて塗るゴッホの筆使いへのリスペクトのようにも思われますね。ゴッホへの尊敬や愛情がなければここまでしないよな…。
今回撮った写真の出来としても、マニュアルフォーカスのピント合わせと被写界深度のコントロールが上手くできたいい一枚でした。
ロダンといえば門外漢であるおれでも名前を聞いたことがあるすごい人。近代彫刻の父と言われており、地獄の門なんかが有名ですね。これもまた画家をテーマにした彫刻として展示されています。
おれはこの手のことに詳しくないので調べましたが、モチーフとなったクロード・ロランは風景画の大家であったそうですね。確かに言われてみれば、人間を見ているのではなく空とか山とか上の方見てるような感じがします。
17世紀くらいまでの西洋において、絵といえばもっぱら人物画や宗教画が主であって、ほとんどの場合「人」もしくは「聖人」「神話上の出来事」を描くものでした。宗教が密接に政治に絡んでいたり生活の基盤になっている文化圏なので、絵を描くんなら宗教的テーマが入ってて当然だろ、みたいな空気だったのかもしれません。そんななかでロランは空や海、野原を描くことを主題として風景画という文化の確立に一役買った人だそうです。人を描くのがどうでもいいあまりに他人に人だけ描かせたり「人間はオマケだ」と言い放ったりもしたらしい。なかなかロックな人ですね。
よく観察してみると口が開いていることがわかりますね。雄大な自然を前にしてついパレットを下ろして放心し、描くことを忘れてじっと眺めているのかな……といったストーリーが浮かんできます。
もともとはロダンがフランスのナンシー市の公園に安置するロラン像の依頼を受けたとき、日の出が見える方向に顔が向くように意図したとかなんとか。ロランだったら昇ってくる太陽が見たいんじゃないかな、と思ったのかもしれません。
う~ん、「人物像」とはよく言ったものですね。人物の像を作るとき、体つきや姿勢などから人となりやふだんの生活習慣が垣間見えるように特徴を盛り込まれている。とくにロダンは「彫る対象が当時着ていたであろう服装を仕立て屋に頼んで作らせ資料にしていた」…なんて話もあるそうで、彫刻家はかなり凝り性というか、資料や文献にあたって正確な描写を心がけたり、内面まで想像して作品に込めることが多かったのかもしれません。
見ているときはおれも写真を撮ることに必死なので、こうしてRAWデータを現像したり記事を書くことで改めて気づくところが多いです。
園内散策
うお……でっか……!
丘の中腹にたたずむ圧倒的な存在感。円錐がたくさん開けられたリンゴの像です。2~3メートルはあろうかという脅威のデカさ。
アイコニックで県立美術館もよく広報で引用する像です。
見ていていろいろな事を考えたんですが、この像のおもしろいところは「巨大なりんご」をその場にポンと置いていることだと思いました。
りんごを見て「ああ、りんごだなあ」と思うとき、普段は意識することもないですが、たとえばヘタを見たり赤や緑の色を見て判別していますよね。
ところがこのりんごは色がありません。輪郭がわかる距離ならまだしも、円錐のせいで近寄るとなにがなんだかわからなくなります。アングルによっては下手するとヘタや特徴となる形状が見えず、ただの玉のように思えてきますね。ヘタだけにねってか!やかましいわ!
冗談は置いておいて、我々がりんごを難なく正確に認識できるのは「りんご」というものが小さく、手のひらにあって全体を自由に見下ろせるからではないでしょうか。
たかがりんごひとつでも人間より大きくなると、一側面しか見えないのでそれがなんなのか理解したり分析したりするのが難しくなる。地球や星に至っては何をいわんやといったところでしょう。自分たちより大きなものについて想像して説を唱え、実証してきたことで今の衛星写真や地図があるんだなぁということを、写真を撮りながら考えていました。
リトルという英単語の定義を問うようながっしりした肩幅、足。見ているだけでおもしろいですね。
体幹がしっかりしてそうでSEKIROの弾きに強そうだなと思いました。きみ葦名にいなかった?本編に出てこなかっただけで葦名の鳥こんな感じかもしれねェな…あそこの生き物基本的になんでもデカいからな…
フェルナンド・ボテロという人はいろんなものを大きく、豊かに描くアーティストとして有名らしいです。やたらものをデカく描くのはsattouさんだけじゃなかったんだなぁ。
バックショットもなかなかにマッシブです。背筋がすさまじく片腕で虎眼流奥義でも繰り出しそう。この尾羽でぶん殴られたら首折れるんちゃうか?
ユーモラスさもありつつ生物の生命力、力強さを感じる彫像です。楳図かずおの鳴き声がデカいスズメにも張り合える勢いを感じますね。なんかクセになるデザインすぎてミニチュアレプリカとか家に飾っときたいな……。
奥の方に進んでいくとバラ園なんかもあります。バラに囲まれるように踊り子の像が立っているのが素敵ですね。
バレリーナをかたどった作品らしいんですが、動き出す「前」の溜める動作を切り抜いているのが不思議だなぁと思ったりします。胸を開いて腕を大きく広げたポーズとかではないんですね。静かで控えめな印象を受けます。
バラもきれいですね。パートカラーで赤だけ残してみたりして遊んでみました。
花を接写するとピントと絞りの加減が難しい。花弁の奥から手前まで被写界深度を合わせてしっかり撮れてるかなぁというのがEVFとか小さいモニターだとわかりづらいので、マニュアルフォーカスは腕が試されます。
サカナクション山口一郎さんが真顔で存在しない特撮番組について語っていた記憶がいまだ新しい、タローマン。岡本太郎の作品です。
樹人というだけあって樹でもあり、人でもあるというような、二者の和合した不思議なプロポーション。美術館の案内でいろんなアングルで見てみることを勧められていたのですが、なるほど確かにこれは角度によりいろんな表情が見えます。
たとえば前から見ると、足を組んで腕組みして何かを考え込んでいる人のように見えてきますが…
横から見ると、これはまさしくツリーの形状になっている。枝葉が突き出していていかにも木のようなスタイリング。
他の彫刻作品とは違ってとりわけ周りに木の多い場所に展示してあるのも、美術館の作品へのこだわりを感じます。
下から見上げてみると圧迫感といいますか、かなりの威容を感じますね。巨大な存在に見下されているような感じがします。
タローマンに上からじっと見つめられているときってこんな気分なんですかね。う~ん、いやでもそれよりはだいぶマシか……。あいつデタラメすぎてマジで何しでかすかわかんねえからな……ビルの窓つっついて壊すし……。タローマンより樹人さんのほうが分別ありそうな気がするな…。今度から困ったら樹人さん呼んだほうがええんちゃうかな…?
Outro
気がついたら夕方になっていました。なんとなくふらりと来てみたはずがあっという間に時が過ぎ、日が落ちるまで夢中になって作品を撮っていましたね。こういった芸術とかにはふだん関心を寄せてこなかったんですが、いざ向き合ってみるとものすごく面白い。もっと作品の背景とか作者について知りたいなあと興味が尽きませんでした。
撮影についてはいろいろ試したり違う角度から撮ってみたりと存分に試せてよかったです。もし作品を見てる人が多かったら写真は遠慮しようかな?と思っていたんですが、すこし日が落ちかけていたタイミングでかなり空いていて運もよかったなと思います。
課題点としてはマニュアルフォーカスのピント合わせと被写界深度をもっと使いこなせるようになりたいなぁといったところです。ピンボケになって今回載せなかったボツもいっぱいあるので…。あとこれボツ写真を見返して気づいたんですが、意外と人体って意識してないうちに傾いてるんですね。撮るときに自分の身体の水平が取れてなくて微妙に傾いて写してしまったりなどもしているので、水準器機能とかも大事なんだなと思ったりしました。
さて、思ったより長い記事になってしまって自分でも困っているのですが、ぶらついて写真を取ったり彫刻見たりする楽しさが少しでも伝わっていたらいいなと思います。
撮影しながら構図を考えて歩いてみると見えてなかったものが見えてきたりして驚かされます。皆さんもぜひ写真を撮りながら散策してみてください。たまたま自分はカメラを持ってたので使いましたが、無理に本格的なものを用意する必要はありません。べつに道具なんて何でもよくてスマホで撮影するのもいいと思います。楽しくあとで振り返られるのがいちばんです。
…じゃあ、観念して鬱ゲーの積みゲー崩しに戻るか………。